アルヴァ・アールトの家具史:遊びと実験の精神が切り拓いた
建築家のアルヴァ・アールト(Alvar Aalto 1898-1976)は、フィンランドデザインを世界的に有名にした人物の一人です。かつてのフィンランド紙幣にアールトの顔が使われていたことや、彼の名を冠した大学があることからも、いかにフィンランドの産業や文化において重要な役割を果たした人物かがわかります。
アールトは建築家でありながら、建築は統合的な芸術である、という信念を持ってインテリアや家具のデザインも手がけていました。彼が最初の妻アイノ、友人達と設立したartekは現在もアールトの家具を販売しています。
アールトの家具の最大の特徴とも言えるのが、木製家具にこだわっている点です。彼がキャリアをスタートさせた1930年代頃は、ヨーロッパを中心に機能主義のデザインが主流で、家具の分野においてもスチールパイプなどの工業的な材料が使われるようになってきていました。そんな中でも、アールトは人にとっての心地よさや経済的な合理性の点から木材の使用にこだわり、木材では難しいと思われていた「機能的」「技術的」「美的」なハードルを乗り越えていきました。(この点においては、別の記事に書いていますのでよろしければご覧ください。)
アールトは1920年代後半から本格的に木製家具のデザインに着手しました。これらを俯瞰してみると、「探索期」「木製アームチェア」「レッグの発明」「シリーズ展開」「再興期」「最後の発明」という6つのポイントがあるように思います。本記事では、それぞれの時代にどのような影響や探索過程があったのか?という視点でアールトの家具を研究しています。画期的な木製デザインの背景には、生涯にわたる彼のデザインの姿勢、「遊びと実験の精神」があったことがわかります。
探索期
1929年から、アールトは家具職人のオットー・コルホネンと共に本格的に家具のデザインに取り組み始めます。初期にデザインした庶民のセンナと呼ばれる椅子は、一枚の成形合板を緩やかにカーブさせて座面を作っています。この成形合板による座面のデザインは、グンナール・アスプルンドの椅子を参考にしています。次のアームチェア23では、一枚の成形合板による座面はそのままに、脚がスチールパイプで作られます。これは、マルセル・ブロイヤーのワシリーチェアの影響とされており、結果、「弾力のある木製椅子」として、ヨーロッパの市場ですぐに販売されるようになりました。同じ構造で、子供用のチルドレンチェア、座面の一部を切り出して肘掛けにしたアームチェア26を展開しています。
木製アームチェア
フィンランドのパイミオにある結核患者のためのサナトリウムの設計は、大きな転換点になります。設計にあたり、施設に備え付ける家具一式をデザインする機会を得ます。この時から、それまでの成形合板の座面とスチールパイプの脚の組み合わせではなく、アームチェア41(パイミオ・チェア)を始めとする、全て木製のアームチェアをデザインするようになります。一枚の成形合板による座面はそのままに、肘掛けと脚構造をひと続きの木製フレームとすることで、「弾力ある」木製アームチェアを実現しました。同様にカンチレバー構造のアームチェア31も展開しています。スチールパイプの脚をやめた理由について、かつて参照していたマルセル・ブロイヤーの椅子を例に出しながら、次のように説明している文書が残っています。
サナトリウムという、入院患者のための建物と家具をデザインするにあたり、座り心地や触り心地を考え抜いた結果、全て木製の椅子という結論に至ります。パイミオのサナトリウムのためにデザインしたアームチェアシリーズは、その後の家具デザインの基盤となっています。
レッグシリーズの発明
「弾力ある木製のアームチェア」とほぼ同時期に、最初の脚のパターン、Lレッグ(アールト・レッグ)を発明し、これを使ったスツール60、テーブル70をデザインします。一片の木片の上部に、木の繊維の方向に平行に短い切れ込みを入れ、そこにカゼイン膠に浸した細い板を差し込みます。木片を型に入れ、圧力をかけていくと、細い板が挟まれた部分が、木片の繊維にぐぐっと45度曲がります。この画期的な曲木の工法により、大量生産ができて、組み立てが容易な、規格化された木製家具が実現しました。
1933年には、ロンドンの老舗デパート、フォートナム&メイソンで、アールト家具の展示会が行われました。建築評論家のフィリップ・モートン・シャンドの熱心な働きかけもあり、アールトの家具はイギリスのマーケットで人気を博しました。ただ、一般消費者のための、安くて丈夫な家具を、というアールトの意図とは裏腹に、当初は「極めてモダンで豪華な木製椅子」という紹介のされ方がされていたようです。また、フィンランド国内のマーケットの反応は良くなかった、とされています。不況から脱したばかりのフィンランドでは、アールトのデザインはまだ一般消費者には受け入れがたく、前衛的、とさえ言われたそうです。
シリーズ展開
1935年にアールト夫妻は友人のマイレ・グリクセン、ニール・グスタフ・ホールと共に自身のインテリアブランド、アルテック(Artek)を創業します。家具のデザイン・生産・販売の体制が整ったことで、この時期にカンチレバーのアームチェア、Lレッグでのスツール・チェアで多くのバリエーションが展開されました。木製フレームを応用したシェルフ112やティートロリーがデザインされたのもこの時期にあたります。
再興期
1940年代前半は、戦後の復興期間にあたり、アールトは住宅復旧のプロジェクトに忙しく新しい家具のデザインはほとんど見られません。次の転換点は、1946年のアルテックスウェーデンの設立です。この頃になると、他国からアルテックへの需要が回復しつつありましたが、フィンランドは戦後の物資不足から回復できておらず、国内での製造は困難な状況にありました。これを受け、スウェーデンのヘデモラに、新たにアルテックの工場を設立し、アルテック製品の製造販売体制を立て直します。ここで再び、新たな家具のシリーズが展開されることになります。アームチェア45, 46, 47,48の一連のシリーズと、Lレッグを応用したYレッグという脚のパターンによるスツール、テーブルがこの時期にデザインされました。
最後の発明
1950年代が、家具のデザインの最後の時期に当たり、Lレッグを応用した脚のパターン、Xレッグ・Hレッグを生み出し、いくつかのスツールやテーブル、アームチェアをデザインしています。この頃の家具は、アールトが設計した建築に備え付けることが前提とされており、素材もレザーのものなどバリエーションが増えています。
遊びと実験の精神
アールトの家具を俯瞰してみると、約30年に渡って、木製家具の様々な表現を探索し続けていたことがわかります。
アールトはこの探索のプロセスを「遊びと実験」の姿勢と呼び、自身のアイデンティティとして非常に重視していました。彼自身は、若い頃に友人のラズロ・モホリ=ナジがバウハウスで教えていた材料実験、またその講義についての著書『材料から建築へ』に感銘を受けたことがきっかけだと言及しています。また、博識な美学研究者ユルヨ・ヒルンによる遊びの理論(子供の遊びがいかにインスピレーションを得るために重要か、という内容)を自分のデザインの姿勢と重ねて説明していたこともあります。また家具職人のオットー・コルホネンと出会ったことで、自由に木材実験をできる環境が得られた、ということも大きいでしょう。特に初期の頃には、家具職人のオットー・コルホネンと一緒に、木材を煮たり曲げたりして、子供のように自由に遊んだと回想しています。
影響源は色々あるのだと思いますが、手を動かしてみることで得られる思いがけない発見が、画期的な木製家具につながっていったことは間違いありません。遊びと実験の過程で得られた木材の様々な形は、当時からアルテックの広告や展示会に登場しており、アールトのデザイン姿勢を象徴するものとなっています。
参考
シルツ編『アルヴァ・アアルト エッセイとスケッチ』吉崎訳, 鹿島出版会, 1981.
Davies, Kevin. “Finmar and the furniture of the future: the sale of Alvar Aalto’s plywood furniture in the UK, 1934-1939” Journal of Design History, vol.11, no.2, pp.145-156, 1998.
Pallasmaa, Juhani. Alvar Aalto furniture, Cambridge: The MIT Press, 1985.
Tukkanen, Pirkko. ed. Alvar Aalto Designer, Helsinki: Alvar Aalto Foundation, 2002.