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追悼 石田長生

 今月はまた日本出張の機会があったのだが、羽田に到着したその場で石田長生さんの訃報に接し、思わず倒れそうになった。石田さんはこの2月、食道がんが見つかり全てのスケジュールをキャンセル、闘病生活に入っていた。

「そして俺のことはご心配なく。命までは取られまへん」
「ゆっくり、負けない、前向き、治す」

などと、亡くなる直前までブログやTwitterでポジティヴに発信していたので、復帰の日を信じていたのだが、不意を突かれた悲報だった。

 石田さんは1952年7月25日、大阪八尾市で生まれた。ビートルズで音楽に目覚め、関西のロック/ジャズ・シーンで活躍する。山岸潤史さんと結成したソー・バッド・レビュー、盟友=藤井裕さんとはGAS、またはザ・ヴォイス&リズムなどと、プレイヤーのみらず、ソングライター、プロデューサーと、その活動は幅広い。
 ぼくは石田さんのプレイをレコードでは聴いていたが、その姿を実際に見たのは'86年と遅い。その年、TBS系列「LIVE G」という番組にジョニー吉長さんが出演し、そのバックを務めていたのがザ・ヴォイス&リズムだった。石田さんらはジョニーのソロ・アルバム『IN THE SUMMER NIGHT』をサポートしており、パープル・カラーのテレキャスター・モデルを駆使しながら、粒立ちのよいシャープなギターを披露していた。スケールに囚われない独特なフィンガリングはこの時も健在で、ステップを踏みながらカッティングを極める姿が印象的だった。
 その直後となる7月5日。日比谷野外音楽堂でPINK CLOUDのギグがあり、アンコール1曲目「4月のサンタクロース」に石田さんがゲストとして招かれる。
 「この水羊羹みたいなギターを見て」(Char)
 「やる、やるとは聞いていたけれど、中々やるなあ」(石田)
などという丁々発止なMCがあり、ステージ上で共演する。石田さんとCharさんの付き合いは長く、石田さんが20歳の時、名古屋のバックステージでお互いの連絡先を交換したというのは有名なエピソードだが、ここでの再共演が切っ掛けとなり、アコースティック・デュオ/BAHOへと発展したこと言うまでもない。 

 本誌では石田さんにインタビューをお願いしている。2009年11月17日のことで、それ以前、藤井裕さんにインタビューをした際、「次回は石田さんに」と不躾なお願いをしてみたら、その裕さんが石田さんを連れてきてくれたのである。場所は裕さんの行きつけ、高円寺ガード下の焼き鳥屋さんで、夕刻の早い時間から始められた。
 最初は緊張感漂う雰囲気だったが、裕さんが隣にいてくれたこと、加えてお酒の勢いもあり、そのうちに打ち解け、10時間という長丁場になったのである(詳細は本誌Vol,115/116に詳しい)。

 「石田のギターはね、初めて会った時から今に至るまで、スタイルがずっと一緒なんよね。それは技術的には向上しているんだろうけれど、持っているものは全く変わらずブレていないからね、それが石田長生であり、他のギタリストとは全く違う個性があるよね」

とは、この時の裕さんによる石田さん評だが、本当にワン・アンド・オンリーなギターだったと思う。一軒めの店では話足らず(飲み足らず)、二軒めにという話になる。石田さんが懇意にしているBARが阿佐ヶ谷にあるとのこと、裕ちゃんにも紹介したいからと3人で高円寺から阿佐ヶ谷まで歩くことになった。
 JR中央線の高架下を行きながら、石田さんは「オレはギターが下手やねん。才能というものを持っていないかもしれない。けれども、練習をすることでカヴァーしている。今も練習は欠かさないんよ。練習していないと怖くなる」という趣旨の話をしてくれた。個性的と言われるスタイルは努力の賜物でもあったのだ。奮励と研鑽は全ての〈プロ〉に通じる道ではあるが、石田さんもまた(そうした姿勢をひけらかすことなく)、現在進行形な「修行」の日々にあった。石田さんの意地も見えるようなエピソードで、驚きつつも感銘を受けたものである。

 〈一人旅(ワンマンキャラバン)〉と称し、全国どこでもギター一本で周っていた石田さんだが、それもまたプロフェッショナルなミュージシャンとしての矜持であったと思う。そんな姿勢にも心打たれ、ぼくはどうしても石田長生というミュージシャンをイタリアの人たちに紹介したいとの願いから、欧州一人旅を誘ってみた。しかし、この時の石田さんは中南米やアフリカンなアプローチに興味がある、ヨーロッパ白人社会には興味がないと仰る。それでもぼくは退かない。またぞろ違う話のタイミングで誘ってみる。興味ないと石田さん。でもやっぱりと話を持ち出してみれば「興味がないと言っとるやろ!」と叱られ、裕さんが間を取り持つなんていう場面もあった。しつこくお願いをしたぼくに100パーセントの非があり、正しく「シクジった」わけだが、本当に、石田長生というアーティストをもっと広く知らしめたいという思いからの理由であったことを伝え、その時は平謝りに平伏した。全くをもって情けない話だが...。

 石田さんに最後に会ったのは、数年前の年末、恒例となっていたワンマンキャラバンの最終地、高円寺JIROKICHIでのライヴだった。終わって挨拶をしたら、「おお、帰ってきたんか。どうや向こうは?」と覚えていてくれて、「またゆっくり話そうや」と約束してくれた。

 石田さんにインタビューをしたあの夜、阿佐ヶ谷のBARには石田さんと裕さん、ぼくとBARのマスターの4人しかおらず、ギターが常設されていたため、なんか少し歌ってみようかと二人で演奏までしてくれた。この時の歌は、いや申し訳ない。これはぼくだけの宝物である。この夜のことは一生忘れない。

 石田さんとの再会が叶わず、突然の長いお別れとなってしまったが、石田さんのことは忘れない。忘れなければ、石田さんはぼくの心に生き続ける、ということになる。石田さんが遺した歌やギターと共に。

(beatleg MAGAZINE Vol,182より転載)

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