追悼:ジョニー吉長
ジョニー吉長(1949年3月21日 - 2012年6月4日)重症肺炎のため死去。享年63
かのバーナード・パーティをして「最高のグルーヴ・ドラマー」と言わしめたことは有名で、'68年のカーニバルス時代、当時のドラマーと仲違いをし、ヴォーカリストでありながらも止むなくドラムを叩き始めたというのもこれまた知られたエピソードである。
その当初から難なくプレイが出来たというのは当人が語っていたことではあるが、ドラマーとして手本にしたのが、そのバーナード・パーディであったというのは意外と知られていない。
パーディとは'75年8月のワールドロック・フェスティヴァルで邂逅し、その後は直接的な交流が測られていたというが、それまでに、パーディのプレイを手本にドラマーとしての研鑽を積んでいたのである。その舞台となったのが当時のジャズ喫茶、またはディスコティックの類いであった。
赤坂にあった伝説のディスコMUGENに、日本人のバンド(在籍していたYELLOW)としては唯一の出演。2バンド制で対バンには米国から来日をしていたバンドが起用され、一日に4ステージをこなす毎日で、MUGEN出演前には新宿ACBでの演奏、MUGENの仕事が終われば六本木の馬車倶楽部へと移動し、日に12ステージという毎日であったという。これはつまり、英国のミュージシャンがハンブルグへと渡り、クラブ・ギグの仕事を夜通しで行っていたのと同じこと。有名なところではBeatlesが、また同じドラマーであるならHR系列のコージー・パウエルやイアン・ペイスらも同じくの修行の場を経ており、過酷とも言える日々の演奏がプレーヤーとしての鍛錬となったこと想像に難くない。
具体的には8ビートだけではない16を主体とするような独特の跳ね具合を習得し、ドラマーとしてのベースはここで養われることになる。
YELLOW解散後は、当時のドラマーとしては異例のソロ・アルバム『ジョニー』をリリースしたり、金子マリ&バックスバニーに参加をするなど、ミュージシャンとしては順風な活動を邁進しながら、'78年にはJOHNNY,LOUIS & CHAR(以下JLC)結成に至る。
日本最強のロック・ユニットとして、これまでに培ってきたアフリカンなビート、R&Bと共に、ロックなグルーブをも自家籠中し、ここにジョニー吉長という稀に見る個性が確立される。JLCでの活動は紆余曲折がありながら15年にも及ぶが、ドラマーとしては二つのピークがある。
まずは結成当初から'82年まで、バンド名をPINK CLOUDとするまでがひとつの頂きであったであろう。トリオを導いたチャーにはCREAMやBBAなどといった正統的なロック・トリオな青写真があったろうが、そうはならず。それは時代の要請、音楽シーンの影響がありながらも、グループの一角を担ったドラマーのグルーヴ感覚が大きく寄与をした。もちろん、唯一無比なリード・ベースを奏でる加部正義、または類い稀なる音楽センスとスター性を兼ねたチャーのギターも相まって、凡庸なR&R/HRではない独特なトライアングルを形成したことも要因のひとつではあったが、バンド結成時の勢いと熱狂ぶりをもって、ここでのプレイはひとつのトップでもあった。
二度目の頂きは'88年から'90年にかけて。'80年代中盤のJLCはいくつかの要因から停滞を見せるが、'87年には復活。新たなる意識をもって活動が盛んとなる。この時期のホームグラウンドは芝浦にあったINK STICKというライブホールで、相当数のギグを重ねながらも6年ぶりとなる傑作アルバム『INDEX』をリリース。ライブの場所をホールへと移し、彼らのパッションは'90年10月31日、代々木オリンピック・プールで開催された一大イベント〈Brain Massage〉へと結実する。ここでのプレイは初期の頃とは異なり、よりスケールが増したグラマラスな内容で、タイトさをも兼ね備えた独自なグルーブを爆発させていた。フリーキーな三者のバイブレーションが合致をすれば、ワン・アンド・オンリーとなる凄まじい世界が現出することになり、近年に至るまで、JLC待望論が唱えられる由縁でもあった。
彼らとしては更なる高みを望めるコンディションにあった。ワールド・ワイドにも充分通用をする音楽性とタレントを有していたものの、三者の思惑、メンバー間、スタッフらとのコミュニケーションが噛み合ず、この後の活動が先細りとなり、'94年に活動を休止してしまう。
以降のジョニーはソロ・プロジェクトのJRSMや、ICHIRO、松浦善博、鮫島秀樹らとのSon's Of Blues、加納秀人、フクシンらとのトリオ/JFKなどを結成するも、大腿骨を骨折、またはアキレス腱を切るという大怪我や、プライヴェートなトラブルなども抱える。ミュージシャンズ・ミュージシャンとして慕われながらも、永続的な活動に結びつかない。
結局は、JLCにおけるプレイがドラマーとしてのピークになったわけだが、先述のとおり、より一層の可能性を秘めていただけに、全くをもって悔やまれるのである。
一方、音楽キャリアのスタートとなったチェックメイツではヴォーカリストとしてならしていたことから、シンガーとしてのタレントを有していたことも忘れることはできない。
もちろんJLCでもチャーとヴォーカルを分け合ったり、またはメインなヴォーカルを担うなど、グループにひとつのカラーを与えていたことは説明するまでもないが、その本領はJLCと並行をしながらコンスタントにリリースをし続けていたソロ・アルバムに発揮されている。
特に、'86年に発表された『IN THE SUMMER NIGHT』アルバムでは、自身のバックをザ・ヴォイス&リズムの面々に任せ、ドラムをプレイしないという潔さ。シンガーとしての自らの内面に真摯に向き合った佳作でもあった。「歌が唄えるドラマー」「ドラムの上手なシンガー」などと言われながらも、そのバランスは絶妙で、晩年はドラムの方がメインであると語っていたが、ジョニー節と云われた絶品のパフォーマンスは一貫して枯れることはなかった。
'65年のデビューから本年度まで、ミュージシャンとしてのキャリアは47年。2012年には毎度の原宿クロコダイルでのBIRTHDAY LIVEに出演し、元気な姿を見せてはいたものの、結果としてその日が最後のライブとなってしまった。
今後、同様の歴史を踏むグレイテストなミュージシャンは生まれ得ず、日本のロック・シーンには大きな損失になったのだが、幸いにも、ジョニー吉長の遺伝子は同じ路を歩む息子たちに受け継がれている。彼が到達しえなかった地平には、次世代でもある彼らが降り立つことになる。ジョニー吉長の見果てぬ夢は未だ終わりをみないのである。
追記:beatleg MAGAZINEでは2010年に取材を敢行し、長時間に渡ってお話を伺った(その一部は本誌vol,122に掲載がされている)。心からご冥福をお祈り申し上げます。
(beatleg MAGAZINE Vol,146より転載〜改稿/撮影:Kiyotaka YOKOSEKI)
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