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とちの木の精霊

2000字で紡ぐ物語

 お日さんがぼくの眠い瞼を、「おはよう、もう朝ですよ」と優しく開けてくれようとしたけれど直ぐ目をつむって、もう一眠りしようと布団を引き寄せた。
でも気になって壁の時計を見るとまだ六時だ。やはり一眠りしよう、起きるには早すぎる、と瞼を閉じた。すると
「いい天気ですよ、元気よく起きましょう」と声がした。
いくら寝ぼけていてもママの声でないのは直ぐわかった。誰か知らない人が泊まっていたのかな、いや泊まっている人などいるはずがない、ではあの声は、と考えているとすっかり目が覚めてしまった。しぶしぶ起きだして、寝ぼけているのかな、と手のひらで顔をこすりながら階段を下りた。キッチンには誰もいなかった。ママが朝ごはんを準備する時間には少し早かったのでベッドへ戻りかけると、
「顔を洗って、服を着なさいよ、外はいいお天気ですよ」と耳元で優しくほほをなぜるような声がした。ふり返っても誰もいない。気味が悪くなって大声でママを呼ぼうとすると、「右肩を見て」と又つぶやく声がした。肩に葉っぱが一枚あって指先ほどの小さな女の子が足をぶらぶら揺らしながら座っていた。まだ夢の中にいると思ったが見回すといつも通りにキッチンの真ん中にでんと大いばりのとちの木の大きな板のテーブルがあて、いつもと変わらないダイニングだった。
確かに目覚めていて夢ではなかった。
「あなたは一体誰なの」と尋ねると、
「私はとちの木の精霊です」と応えた。
 とちの木の精霊と言われても一体全体何の事かわからない。やはり夢を見ているのだ、と又思った。
「私の言っている事がわからないようですね、私はこの家にあなたのひいひいじいさんの頃から百年あまりすんでいます、この家のだれもが知らない事もぜんぶ知っていますよ」
「でもぼくは今朝初めてあなたに会ったばかりです、どうして今まで会えなかったのでしょうか、パパからもママからもおじいちゃんからもあなたの事は聞いたこともありません、百年もこの家にすんでいるのならキット誰かが会っているに違いない、どうしてなの、誰にもわからないように、百年もどこに住んでいるの」
「そうだよね、いくら小さいからと言っても姿が見えればきっと見つかってしまうよね、実を言えば私の姿は君以外に今は見えないし、声も聞こえないよ、とちの木の精霊は君たち人間とは違った宇宙の生きものなの、生きものと言えるかどうかわからないけれど、私が住んでいるのはキッチンの大きなテーブルの足に残った小さな節の中です、でもその節をのぞいても探っても私を見つける事は出来ません、私の姿が見えるのは今日あなたが八才の誕生日を迎えたからです、ひいじいちゃんもパパも同じように八才の誕生日に私に会っていましたよ、でも大きくなるにつれて夢の世界のできごとのような思い出はどこかへ飛んで行って消えてしまったのでしょう、私はあなたのパパを四百年も前の広大なとちの木の森へ連れて行って自然の素晴らしさを満喫してもらおうとしたの、でもそこはもうとっくにとちの木の森はなくなってしまっていて、花粉症を引き起こす杉の森になってしまっていました、仕方がないので私の思い出の風景の中へパパを呼び込んでごまかしましたよ、今日はあなたに今の風景と四百年前の森の景色の両方を見せたいと思います、その二つの森の姿の違いを直に感じて、これからのあなた達の暮らし方を考えて欲しいのです、八才の幼いあなたには少し難しい事を言ったかな、それではママが起きてくる前にとちの木の森へ行ってみよう、私をつぶさないように優しくふれてみて」
恐る恐る指先をとちの木の精霊にふれて瞬きをする間にとちの木の繁った森の中にたたずんでいた。すると突然あのとちの木の精霊がぼくより大きな姿になって優しくほほえんでいた。
「では行きましょう、私の育った森はもう少し奥へ入ったところです」
うっそうとしたとちの木々の間をまるで躍っているように軽やかに歩いて行くのです。足元はとちの木の葉が敷きつめられて、周りのとち木々の大きさは九十センチぐらいもあって家のテーブルの板がたくさん作れるだろうと思った。
 見上げると枝や葉のあいだから高い空が見えて今まで感じた事もない喜びが体一杯にあふれ出してぼくもとちの木の精霊に負けないように踊り出していました。
なんて素晴らしい森なのだろう、とつぶやくと、
「そうでしょう、このように素晴らしい森が今はもうありません」
とちの木の精霊が言い終えると森はたちまち一変して植林された二十センチ程の杉の木々が立ち並ぶ、ぼくも見たことのある杉山に変わった。あまりの変わりようにたまげて大きく息を吸った。すると家のキッチンのトチノキのテーブルにひじをついて座っていた。テーブルの足に節もあった。とちの木の精霊はぼくの八才の誕生日に大きくなっても八才の時の思い出を大切にするようにぼくを森にさそってくれたのだ。


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