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ある人生:邂逅と別れ(第3話全8話)

 夜中に目覚めても眠りはいつの間にか訪れるのだがたえず夢を見ている。
 経験もしていない、変な組み合わせだったり、とてもあり得ない出来事の現場にいて、訳の分からない情景の中でいつもあがいている。
 出てくる人は過去に会っている様に思われるのだが、磨りガラス越しに見ている様で判然としない。
 毎晩の夢を想い出そうとしても徒労に終わる。

 八十三年も生きて来て、直ぐそこに終末のゴールテープが張られているのが見える気がしている。
 毎朝、新聞のお悔やみ欄をみて知人はいないか確認をしている。そのような生活の中で今更人生を振り返っても仕様がないと思いながら、それでもやっぱり、今の幸せな生活をもたらしてくれた日々を辿りたくなる。

 私の人生の始まりは、皇紀二六〇〇年、昭和十五年、西暦一九四〇年、真珠湾攻撃の前年だった。
 当時の父や母の写真を見ると至って穏やかな日常を過ごしていた。
しかし翌年の真珠湾攻撃を境に戦争の影がじわじわと広がりを増していった。
 父は召集されて姉と弟と母と私の四人は田舎へ疎開した。
 
 終戦間際の直接の焼夷弾爆撃の直下には居なかったが家は総て焼失して跡形も無くなっていた。
 終戦の一週間前の夜、超距離爆撃機B29の編隊が町の空を覆い隠すように飛来して1メートル四方に3発も焼夷弾を投下したのだった。
 燃えている市内から、助けを求めて叫ぶ人を振り返らずに、少年航空兵志望の十四才の叔父は想像を超えた悪魔の業火との邂逅に魂を抜かれて煤けた顔を涙でぐしゃぐしゃにし乍ら口と目をぽかんと空けて、ものも言わずに大伯母の家の玄関に立っていた。側で顔を見上げていた私にも恐怖が伝わって身体が硬った。
 私は少し前まで畑に蹲って頭上を飛来する飛行機を見上げてサーチライトに照らされないように畝の間に俯せになって震えていた。
 
 無慈悲な米軍の爆撃の数日後に、国民は天皇陛下の不思議な響きの声を初めて玉音放送で聞いて終戦を迎えた。
 子供には解らず、大人のような感慨は湧かなかった。
母の喜びの感情を察する事もなかった。
 子供はいつもと変わらなかったが国は連合軍の統治下に入り大転換を始めた。
 
 疎開先の納屋の前の小川の土手で俯いて遊んでいるとゲートルを巻いた脚が眼に入って、振りかえると坊主頭で髭面の人が顔を覗き込んでいた。
「勝也か」の声に
「お父さん」と言って家に向かって駆け出していた。
「お母さん、お父さんが帰ってきたよ」と叫びながら家の中を駆け回った。
 その行動は喜びと言うよりは母に早く知らせたい気持ちだった。
母はその日が来るのを一日千秋の思いで待っていたに違いない。でも父母の再会の情景はスッポリと私の記憶から抜け落ちていて思い浮かば無い。思い出そうとしても一向に端緒もつかめない。
 映画や物語だと盛り上がりの部分で屹度アップショットのはずだが記憶は時間の消しゴムで表面を擦られて不鮮明な見え難い痕になってしまったのだろう。

 父の帰還で子供の生活が一変したことはなかったが母は一人で悩んでいたことから開放されて楽になってホッとしただろう。

 終戦の翌年小学校一年生になった。入学式の日の様子は全く覚えていない。母に連れられて行ったのだろうが母の様子も覚えていない。
 学校は焼夷弾爆撃で灰塵に期してしまっていたので焼け残っていた軍の被服廠跡で、しかも二部授業だった。一年後に校舎が出来たが矢張り教室が足らず二部授業の解消にはならなかった。

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