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【海外赴任】深圳のバブルを目の前で目撃し、つかの間のチャイニーズ・ドリームを楽しませてもらった話し。

香港返還1997年からミレニアム2000年頃にかけて、中国・深圳はかなりのバブル状態であったと思う。
どんどん新しい高層ビルが建ち、街の人口も10年間で数十万人から3百万人にくらいに急増していた。

私は、中国工場にVCD (CDフォーマットで映像がでる規格)プレイヤーを製造するのに必要な、キーデバイス (光学部品と半導体)を販売していた。

1993年香港に赴任し、中国工場を訪問し始めた頃の中国は、とても貧しかった。
大型の旧国営工場は、その図体は大きかったが、VCDのような新しい技術の取り込みには奥手で、全然商売は伸びなかった。
VCDの黎明期から2000年の普及期まで、業績を大きく伸ばしたのは、広東省を中心とする、若い世代の人達によるオーディオ工場であった。

黎明期の頃の電機工場はだいたい木造平屋建てであった。
工場の中は古い小学校の教室のようなイメージで、中学生くらいの女子工員が机に座って、スピーカーやヘッドフォンなどを手作業で製造していた。
作り方はいたって原始的で、エナメル線をクルクルと磁気部品に巻き付けるような作業をしていた。

少し大きな工場では、ラジオカセットを製造していた。
ラジオカセットの製造工場は、工場らしく、製造ラインが敷かれ、その両脇に工員が並んで、立ち姿で作業していた。

そういった、工場の入り口辺付近には、下駄箱があり、箱には靴以外に洗面器が入っていた。
お昼休みになると、工員はマイ洗面器を持って食堂に行き、どんぶりもののご飯を洗面器に入れ、人によってはそれを食べながら歩いて工場に戻って来た。
お昼休みの工場は灯が消されて薄暗く、工員達はラインにつっぷして、昼寝を楽しんだ。
何もしらずに、初めてこの光景を見た時は、それは驚いたものである。

VCDの黎明の頃は、オーディオ工場の社長は、ほぼ全員が50ccのスーパーカブに乗っていた。
商談が終わった後に、ご飯を食べに行く時は、社長のオートバイの後ろに座り、レストランに向かったものである。
レストランは、だいたい屋根はあるけど、エアコンのない、扉や窓があけっぱなしスタイルのお店が多かった。

それから2年くらいすると、VCDの市場が立ち上がり始め、オーディオ工場の社長は、お金を稼ぎだすようになる。
木造平屋の工場はモルタル平屋の工場にupgradeされ、平屋モルタルの社員寮なども併設されだした。

商談後の食事に行くときの足も、カブからカローラに格上げになり、雨や暑さをしのいで、レストランまで行けるようになる。
そして、食事が終わった後は、カラオケに行く余裕が出始める。

更に2年くらいすると、工場はモルタルの2階建てに、社員寮も同じく2階建てになる。
この頃になると工員を深圳市内で集めるのが難しくなり、地方で工員の募集をかけ、バスを派遣して工員を田舎から連れてくるようになる。
社長の足は、カローラからカムリに格上げ。

商談後の食事に行くレストランも格上げとなり、その後のカラオケは、バレット駐車(といっても、入り口の前に、運転代行の人が1人いて、何ブロックが離れた空き地に駐車する程度のサービスだけれど)のあるお店になる。

そして、私が帰国する頃になると、オーディオ工場はコンクリートでできた、4階建てのものになり、全館にエアコンが入るようになる。
もう夏に汗を拭きながら商談することもなくなる。
車はカムリから、ベンツかアウディに格上げされる。そして車だけでなく、運転手が登用されることにる。

商談後のレストランもフカヒレや伊勢海老がでてくるレストランになり、2次会も、娯楽城と呼ばれる、5-6階建てはある、レストラン、サウナ、カラオケなどが入る複合ビルディングになっていった。

深圳の街の様子も私がいた6年間にすっかり変わった。
最初は舗装もろくにされておらず、雨が降れば道がぬかるみ、あっと言う間に渋滞になった。
それが、道路が舗装され、下水が整備され、深圳-広州間や深圳-恵州間には高速道路が走るようになった。

街並みも、4-5階建てのビルがメインだったところに、30階建て、50階建てのビルがどんどんと作られ、街のいたるところで、大型ビルの工事が行われていた。

私が代表を務める深圳事務所は、当初4人でスタートしたが、帰国する時には約20名体制に(その数年後には100名を大きく超える体制になる)、売り上げもゼロから数百億円/年になるというレベルの急成長であった。

私の帰国に際して、仲良くなった中国オーディオメーカーの社長は、「お前との6年間の仕事は楽しかった。沢山儲けさせてくれてありがとう」と言い、皆、送別の宴会を開いてくれた。
そして、「これだけビジネスを大きくしたのだから、日本に帰ったら、本社でお前も相当出世するだろう」と、笑顔できいてきたものである。

実際、私は前年に課長試験(といっても海外は、実際の試験ではなく、レポートを提出する形)を受けたが、ものの見事に落ちており、帰任した後に再び課長試験を受ける予定になっていた。

ゼロからオフィスを立ち上げ、売り上げもゼロから百億円を超えるビジネスを作り、日本に帰任して係長から再スタートというのは、日本の会社のシステムはどうなっているの?と思ったものだ。

しかし、それ以上に、お金目当ての人が中国全土から集まり、犯罪が頻発する深圳から無事に笑顔で帰国できることが、なんともありがたかった。

私腹をこやせる甘い話が幾つもあったが、そういった話には一切乗らず、お天道様に恥じることなく頑張ったのが、身を助けた。
そして、若いうちに、お天道様に恥じない姿勢の大切さを身を持って学べたのが人生の大きな収穫であった。







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