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【海外赴任】ソニーの海外ベンチャーに参加して、人生で一番働いた話。お前達は、クレイジーだと言われて。

ソニーに入社して、電子部品の営業を10年行った後に、自分で手を挙げて、子会社のインターネット接続会社So-netの海外展開を行うプロジェクトに参加した。

きっかけは、当時社長の出井さんが、「ITは、隕石がユカタン半島に落ちた衝撃を世界に与える、インターネットに乗り遅れると、ソニーは隕石で滅んだ恐竜のようになる。」と言ったことだ。

会社がインターネット・デジタルの方向に大きく舵を切る中、電子部品を売っている場合ではない、インターネットビジネスに飛び込まねば、と手を挙げた。

当時、So-netは、日本においてインターネット接続ビジネスで、既に一定の地位を築いていた。
プロジェクトは、これを世界に展開していこうというものであった。

私は台湾の担当となった。
私はインターネットに関しては、全くの素人であった。
そして、なんと、So-net台湾の会長(台湾人)と社長(日本人)になる2人も、インターネットビジネスの経験は全くなかった。

当初は、So-net日本のノウハウやエンジニア力が海外展開で大きく活用できる目算であったが、いざプロジェクトを進めていくと、インターネット接続ビジネスは極めてローカル環境に左右される要素が多く、まずは、台湾チーム独自でプロジェクトをスタートすることとなった。

私は、不安な気持ちのまま、台湾への長期出張に旅立った。

台湾側では既に、会社の登記や、事務所の賃貸契約などが進んでいた。
台湾So-netは総勢約200名で運営する予定で、まだ空っぽの新事務所を社長と眺めながら、まずは、人を雇わないと始まらないとなった。

接続サービスはちょうど1年後にスタート予定であった。
インターネットの普及率がどんどん上がっていたので、1年以内に市場参入ができないと、顧客を十分に獲得できず、生き残れないというのが我々の皮算用であった。

それから、毎日レジメを見た。エンジニア、サービス企画、財務、経理、マーケティング、営業、コールセンター。
会長、社長と私の3人しかいない中で、数か月でkeyとなるスタッフを雇う必要があった。

朝から晩までレジメを見た。
よく行く近所の食堂の人が、毎日レジメから目を離さずに、お昼ご飯をかきこんでいる姿を見て、あきれていた。
その数か月間に1,000名以上の人と面接した。

それから、約1年間、平日は、毎日朝8時半から深夜2時頃まで働くことになった。
1年間で、平日に夜12時前にオフィスを後にしたのは、最初に着いた日と、誕生日と、帰国する日の3日間だけだった。

私だけでなく、ベンチャー企業立ち上げということで、多くの人間が信じられないくらい、猛烈に働いた。
台湾人というのは、とても我慢強く、粘り強く働ける人達だということがよく分かった。

人を雇う以外に、私はBilling systemの開発を担当した。
Billing systemは、インターネト接続サービスで中心となるシステムである。顧客の入会、退会、支払確認などを、何万人、何十万人の会員に向けて、毎月、毎日、運営するシステムである。

ATM振り込み、クレジットカード払い、郵便振り込み、コンビニ支払いなどの支払い方法にはじまり、途中退会する顧客の最終請求費用の計算方法。
更には、初月無料とか、3ヵ月間30%オフ、既存会員に行うスペシャルディスカウントなど、あれこれ要件を入れていくと、その開発はとても期限内に収まらない。

素人の私が、朝、開発ベンダーに教えを請い、夜中までかかってメンバーと一緒に要件定義を作り、翌朝ベンダーに見せる。
ベンダーが開発工数を読むとスケジュールに間に合わない。
すると、私は目を血走らせて、どうにかして間に合わせるようにと、ベンダーに迫る。

最初は経験がなくて手間取った。
毎日、普通の人の何倍も集中して、時間も倍働いていると、自ずと、要件定義やbilling system開発の要領が分かるようなった。

この時に、常識と、それなりの地頭と、大きな情熱があれば、たいがいの仕事は出来るということ体得した。

ベンダーも一流で頑張る、多いときは20数人のプログラマーが会社に来て、開発をしていた。
見かねて、ソニーシンガポールからISのベテランが2人長期出張ベースで助けに参戦。

ベンダーサイド、ソニーサイドが一緒に、毎日泥のようになりながら、要件定義とシステム開発に取り組む。
結果、ISのベテラン社員の1人は、あまりの修羅場にgive up。
ベンダーの頼みのProject managerも、体調を崩し、「このProjectはimpossibleだと」言い残して去っていった。

殺伐としてきた仕事場に、インターネット接続事業経験者で仕事のできる人が入社した。
So-net日本からもシステムに詳しいシニアマネジャーが短期出張で参戦。
ベンダーも即座に、新しいプロジェクトマネジャーを送り込んでくる。
こうして、修羅場だったBilling systemは奇跡的に、ほぼ予定通りの予算とスケジュールで完成するのであった。

会社の中では、あちらこちらで修羅場が展開されていたものの、会社全体のスケジュールも、概ね予定通りに進行していた。
そして、サービス開始予定の2ヶ月程前になって、ネットワークシステムの一気通貫テストが始まりだした。

Billing systemは何十万人もの顧客の支払いを管理する大きなシステムだが、インターネト接続事業には、もう1つ肝心なシステムがある。
それが、ネットワークシステムだ。
こちらは、顧客がインターネットブラウズ、メール、web hosting、Roamingをしたりという、我々が顧客に提供するサービスを支えるシステムとなる。

Billing sytemと異なり、10社程度のベンダーが複合的に関与するので、一気通貫テストをパスするのはかなり大変だ。
顧客dataが保存されているCustomer DB、ネットワークに入る認証をするRASサーバー、email サーバー、外国で認証をうけるときのroamingのサーバー、Fire wallの設定。switcherの設定。台湾島内のネットワーク回線。海外のクラウドに繋がるInternet EX、等等、関与する設備も多い。

テストシナリオでは、テスト用顧客カウントを作り、ログインして、お客さんに提供する各サービスが設計通り動くか確認する。
10社のベンダー代表者が会議室に集まり、実際にテストしてみると、上手くいかない。

我々サイドでは、まず、何が上手くいっていないのか分からない。
そこで、ベンダー1社づつに、あなたのところがエラーしているのでは?
と聞くと、ごにょごにょと技術用語で、自分達のハードウエアは正常に動いていると回答する。

仕方がないので、ベンダーの中で頭がよさそうで、人柄がいい感じの人を指さし、私は猫なで声で、「あなたがベンダー代表として、この会議を仕切ってもらえますか」と指名する。

ブルース(そのベンダー代表の人)は、会議室の白板の前に立つと、私の理解を遙かに超える中国語で、ベンダー達と激しくやりとりを始める。
しばらくすると、結論が出たらしく、私に向かって技術用語をバラバラと語る。

そこで、私はブルースに、「6歳の子供にも分かるように、議論のキーポイントを要約し、かつ、平易な言葉で言ってくださいと」と優しくお願いする。

ブルース曰く、要するにFirewallとRASの設定が嚙み合っておらず、Firewall側の設定を変更する必要があると言う。

それを聞いた途端、私は態度を豹変させ、Firewall ベンダーを睨めつけながら、今すぐ設定を変更するように、大きな声で指示を出す。
サービス開始が1日遅れると、数百万円の損害を被ることになる、とろとろしていると、全部あなたに請求するぞ、言葉を荒げる。

こうして、ブルースが実質テストを仕切り、完全に門外漢の私がジキルとハイドのような芝居を打ちながらテストは進んだ。
予定ギリギリの金曜日の深夜でもテストは完了せず、全員問答無用で土曜日に会議室に集まり、その日の深夜に無事にテストを完了させた。
会議室は歓声に包まれた。

ブルースは、興奮気味に語りだした。
「あなた達は、クレイジーだ。
普通なら2年はかかるインターネット事業を、ゼロから1年で立ち上げようなんて話しを聞いたことがない。
それで、その非常識な目標に向かって、わき目もふらず必死に毎日毎日働いて。
最初はバカじゃないかと思っていた。
業界では絶対に計画通り行かないと言われていたし、ここにいる我々ベンダーも誰1人上手く行くとは思ってなかった。
それを、あなた達は素人のクセして、バカみたいにしゃかりきに頑張って。
本当に、いい物を見せてもらった、いい経験をさせてもらった。」

私はこの時に、はっきりと分かった。
ビジネスというのは信頼関係で成り立っているということを。
いろいろな壁があり、楽に上手くいく仕事なんてない。
しかし、ひた向きに一生懸命にやっていると、その情熱が拡がり、必ず助けてくれる人が現れることを。

世の中には、いい大学をでたり、頭のよい人が大勢いるけれど、物事を前に進めるのは、クレイジーと呼ばれて、がむしゃらに頑張る人達だ。

So-net台湾は、当初の計画通り2002年に、ビジネスを開始した。
そして、2024年現在も、So-net台湾はビジネスを継続している。

So-net台湾の立ち上げに参加したこの年、私は人生で一番働いた。
1年間の長期出張は、会社近くのビジネスホテルで過ごした。
夜7時頃に、会社では夕食のお弁当が配られた。
それを食べて夜中まで働き、深夜2時頃にオフィスを出た。
それから、ホテル近くの吉野屋で夜食を食べた。
毎日深夜に食べに来るものだから、吉野家のおばちゃんに健康をたいそう心配された。
おばちゃんは、いつもアイスレモンティーをプレゼントしてくれた。
吉野屋は好物だったけれど、1年に200杯以上食べたので、それから数年は全く食べなかった。

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皆さんは、寝る間も惜しんで働いたことがあるだろうか?
今の時代、毎日長時間残業をするような仕事の仕方は許されない。
その分、私の時代に比べて、今の若い人は仕事に関しては、不利な状況にあると思う。

何年も鬼残業をする必要は全くないが、若い頃に数年か、せめて、1年でも仕事に集中する機会があった方がいいのではと、個人的には思う。

NVIDIA CEOのHuanさんは、ハッキリと言っている。
困難を経験して、忍耐力を養い、人格を磨いた人達がGreatな事を成し遂げる。単にいい学校を出たとか、賢い人はあまり役に立たない。

残業時間とかの狭い料簡の話ではなくても、困難な仕事、忍耐力のいる仕事をする機会があるのであれば、若い時にそういう仕事にチャレンジすることは、将来のキャリアにとても良い事だと思う。

「艱難汝を玉とする。」
Huanさが言わなくても、紀元前3世紀頃から言われている言葉である。


NVIDIA Huanの談話。日本語字幕で見ることができる。

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