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自分の色はいつ決まるのか

小学生の頃、クラスを二分され、強制的に赤と白に定められた。
中学生の頃、クラスごとに色を与えられ、強制的に決められた。
高校生の頃、学年を4色に分けられて、強制的に色が決まった。
大学生の頃、お前は何色かと聞かれ、適当に好きな色を答えた。

自分の色はいつ決まるのだろうか。

社会人2年目、24歳。
自分の色は死ぬ時決まるのだと思うようになった。
適当に言うとカメレオンみたいな。
その場、その時、その環境で色はコロコロ変わっていく。
最期の死に際でどんな色をしているのか、
そんなものは検討などつくはずがない。

だけど厳密にはカメレオンではない。
色が変わるのではない。
色が上塗りされていくのだ。
赤だと思ったら黄色を上から塗ってみて、白を足してみて、
そうして混ぜ合わせながら、混ざり合いながら、
自分の色を探し続けていく。

自分の色が決まる時、それは僕にとって
小沢佑太という人物の死を意味する。

時々、自分を色に例えると?
という質問に出会う。
就活か、自己分析の質問か、昔流行ったプロフィール帳か。
とにかく24年生きてきて7回ぐらいはこの質問に回答した覚えがある。
黒だなあと思う時あれば、赤だなあと思う時もあれば、紺色だと感じる時もあった。
その都度、答えたくなる色は変わっていく。
それこそが成長であり、変化であり、進化なのではないだろうか。

自分の色が不変のものとして定まる時、それは僕にとって
小沢佑太という人物の終点を意味する。

どこまでも続く道なき未知を進み続けたい。

ある人と出会って、その人がその時ピンク色だったとして、
その時のその人との出会いが僕にピンクを与えてくれるきっかけになったりする。
僕が僕として生きていたらきっと出会うことのなかったピンクという色を、その人のおかげで感じることができて、触れることができて、自分の混沌に一縷の光を灯したりすることだってある。

思えば、昔からそうだったかもしれない。
一定の基準として無難な好きでも嫌いでもない色を着ていることは多いが、服を買いにいった時、時々やってしまうことがある。これまで生きてきた小沢佑太なら絶対に選ばないけれど、今の自分なら選択肢としてありかもなあ、でも多分普段なら選ばないだろうなあという絶妙な色をチョイスして買ってしまうこと。これが案外似合っていると言われたりするのが不思議で面白い。
「似合うかどうかは見慣れているかどうかだ」という僕の勝手な自作名言があるので、その正当性を証明したいという意図も含まれてはいるのだが。

兎にも角にも、僕が言いたいことはただ一つ。

自分の色はこれだと結論付けられた時、それは僕にとって
小沢佑太という人物の終わりを意味する。

最後まで読んでくださってありがとうございます♪ 現在は日々の気づきを毎日綴っています。 2022年に劇団を立ち上げ、その運営を行う中での気づきや成長日記にすることを目指しています。 もしよろしければ、今後の活動をサポートしていただければ幸いです☺️