自閉症スペクトラムの母私のこと
私の自己紹介や生い立ちを軽くノートに残します。
私は兄の居る長女。体は健康そのものだったけど小学校2年生のころ強迫生障害を発症した。小学校6年生の頃には生きづらさを感じていた。
17歳でパニック障害を発症。勉学は力を入れてきたので進学校に通っていたが精神疾患が原因で退学した。パニック障害を患った原因はいじめであった。それにプラスして今までの生き辛さが加わったのだろう。通信高校に通い、美容が大好きだった私は美容の専門短期大学に進学して一人暮らしを始めた。
自分1人のペース過ごせる生活とはなんと居心地が良いんだろう。また大好きな美容について深く学べることが本当に楽しかった。毎日が充実していた。仲の良い友達に誘われ興味本位でキャバクラでバイトもしてみた。よくお客さんには、不思議ちゃんだね、個性的だねなど言われていた。
無事に楽しかった短大を卒業し就職した。職種は受付事務である。
結論から言うと最悪だった。
社会に馴染めなかったのである。
書類を作ってもミスが多く、毎日上司に叱られる
そのうち私は退職してしまった。
やさぐれて毎日フラフラして過ごした。そんな毎日の中かつての夢であった看護師になることを思い出した。思い立ったらじっとしていられない性格故、看護学校を受験した。
結果は合格だった。
しかし思いがけない出来事に遭遇してしまう。
またパニック障害を再発してしまった。
精神科にてパニック障害とADHDと診断されることになったのだが、医師から衝撃的な言葉を掛けられた。
「あなたのような病気の人は看護師になって欲しくありません。なれません。」
今ならそんな言葉もさらりと流せるだろう。良い気はしなくとも。しかし当時の私には酷すぎる言葉であった為2度と学校にいけなくなってしまった。
注 看護師さんの中には、発達障害や、精神疾患を抱えながら職務を全うされている方が沢山いらっしゃいます。その医師の勝手な思い込みですので誤解なさらないでください。
私は看護学校を退学した。人生で2度目の退学である。もう生きているのが本当に辛かった。
しかし何かやり遂げる自信が私には欲しかった。高校生の頃目指していた志望大学。親に頭を下げて予備校に通わせてもらった。幸い私の親は私の良き理解者であり、受験を認めてくれた。
しかし偏差値は60をこえるので安易ではなかった。ただただ自分に成功体験がほしくて1年がむしゃらに、猛勉強した。結果は
合格した。
嬉しかった。大学も合っていたようで、楽しく過ごした毎日だった。良い意味で変わった人も多く、すんなりと馴染み、生きづらくとも居心地の良い空間に居た。
無事に卒業し26歳の時主人と結婚し、長女を授かった。
以上このような生い立ちである。
そして長女は5歳になる。私もまた生きづらい病にかかっている。そして長女も…。
発達障害を持つ長女との出来事を記していければと思っております。