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神学と宗教学と信仰③ 山も海も越え、アカデミアの枠を超え、学際的な研究をしよう。
学際的(Interdisciplinary) という表現を聞いたことがありますか?一つの学問からの視点に縛られずに、複数の学問からの視点を取り組んだ活動や研究のことを指します。宗教というテーマは、人類学、社会学、教育学、環境研究など多数の視点を必要とする分野なので、宗教学ではほぼ100%「学際的」な研究をすることになるのです。
宗教学のように Intercultural Theology(諸文化間神学)の学問も学際的な性質であったため、私の修士論文のプロジェクトも研究自体は実証研究を軸とした宗教学的アプローチをとりつつ、最後に神学的なリフレクションも追加するという学際的な研究となりました。また、実証研究の中では教育学(教育学部出身だったこともあり)から発生した理論なども取り入れつつ、学際的な研究をしようと作戦を練りました。
修士論文のタイトルは "Harmony in Contrast: Exploring Shintō Perceptions in Japanese American Diaspora"(「対比の中にある調和:日系アメリカ人ディアスポラにおける神道の認識を探る」)。
… 未だに「ディアスポラ」という言葉をタイトルに使ったことについて、自分の中で賛否両論ありますが、今更変更はできないのでこのまま行きます。
さて、このニッチな研究について紹介します。
テーマはタイトルにあるように、日系アメリカ人が日本の神道、特に神道の儀式や行事についてどう捉えて認識するかというものです。なぜこの研究になったかというと、私は自分自身あまり神道や日本の宗教観についてあまり知らなかったので、この機に調べてみようと思い立ったのがきっかけです。また、せっかくなので海外にいる日本人や日系人にインタビューしてみようと思ったのです。しかし、当時は私もドイツ語が今以上に下手くそでドイツ国内ではインタビューや調査が全然できないとの自覚がありました。そんな中、指導教員が「日系人が多いアメリカやブラジルに行くのはどうか?」と提案してくれたのです。
ポルトガル語は全くわからないのでプラジルは却下、代わりにアメリカ合衆国に行くために急いで奨学金や大学の交換留学プログラムに応募して、なんとUCLA(カルフォルニア州立大学ロサンゼルス校)行きのPROMOS奨学金をもらうことができました。しかしここで問題が発生。なんとアメリカの大学にまず受かってなければ、そもそも奨学金の対象にならないと判明したのです。
… ゲッティンゲン大学のPROMOS奨学生でこの間違いをしてしまったのは私の前にたったの1人だけ、しかも13年前にあった話と聞きました。
慌ててUCLAの宗教学研究室にメールをして、母校から研究費をもらったので、正規留学ではなくてもどうにかUCLAと関わりを持てないかと聞いてみました。
するとなんと。UCLA側の担当者がすぐに返信をくれ、正式な生徒としての種類やビザは発行できないがオープンパーティやイベント、また一般利用が可能なUCLAの大学図書館は使用していいと連絡をいただいたのです。
急いで3ヶ月滞在可能なESTAを申請し、友人に紹介していただいたとても素敵な日系人ファミリーへのホームステイも決まり、2023年9月に奇跡的にアメリカ合衆国のカリフォルニア州へと修論研究が可能となったのです。
修論研究「対比の中にある調和〜日系アメリカ人ディアスポラにおける神道の認識を探る〜」
ディアスポラ(離散)コミュニティに関する研究は、「アイデンティティ」「文化」「宗教」「環境への適応」といったテーマを深掘りする様々な学問分野で注目を集めてきました。
特に、移民人口が多いドイツやアメリカなどの国々では、多文化・多宗教の状況下でのアイデンティティ形成や宗教に関する研究が多くみられます。
本研究は、歴史的に見ても移民人口が多くディアスポラ・コミュニティに関する研究がアメリカの中でも多数行われているカリフォルニアで実施することにしました。特に、日系アメリカ人コミュニティに所属する人々のアイデンティティや経験、環境や宗教観を理解した上で、本人たちが日本文化や日本の宗教(特に神道)をどう認識しているかを調査しました。
日系アメリカ人についての歴史的な洞察については、USC(University of Southern California)にて東アジア研究所の教員であり曹洞宗の僧侶でもある Duncan R. Williams 教授、東アジアの歴史学者であるEiichiro Azuma、Roger Danielsなどの研究者が提供しています。[1]
特に、現地でお会いすることのできた Duncun R. Williams 教授は、日系アメリカ人コミュニティにおけるキリスト教と仏教の研究の第一人者と言われています。しかし、日系アメリカ人と神道に関する関係は、先行研究も多くはなかったため、私はこのテーマについて調査することにしました。
3つのリサーチクエスチョン
まずは、この研究の軸となる3つの問いを立てました。
一つ目は、「神道儀式の主催者は、これらの儀式を通してどのようなメッセージを伝えようとしているのか?」という、神道儀式の主催者や実施者が意図する意味についての好奇心から発展したこの問い。
「意味」に関する研究は一般的に語義論(semantics)として扱われますが、本研究では宗教儀式の身体的表現や体験を探求する「身体的(somatic)」な視点も含めたいと考えました。語義論と身体的な視点の両方を取り入れるため、本研究はまず宗教儀式に暗示および認識された「意味」を「メッセージ」という言葉で表現しました。
「メッセージ」という言葉の適性については、この論文全体を通じて疑問に掲げています。そもそも儀式に意味や目的を暗示すること、メッセージ性を持たせることは神道において一般的な概念ではなく、むしろ書かれた情報や話し言葉としての情報、またキリスト教の福音を指す際に用いられることと後から理解していきました。
宗教における『儀式』という概念は、世界最大規模の儀式についての研究プロジェクトであるハイデルベルク大学の共同研究センター「リチュアル・ダイナミクス(SFB 619)」により精力的に研究がなされており、儀式とは異なる文化や文脈で適応し、変容し得るプロセスであるという理解が一般的です。この研究によると『儀式』というのは、集団の結びつきを新たにし確認しする、あるいは社会的に有効な意味を創造するプロセスであると説明されています。[2]
さまざまある神道の儀式ですが、私が今回選んだのは「八乙女の舞」と「神輿渡御」の二つの行事です。神道の神社全般で毎年祝われる例大祭と、その一環である神幸祭の一部です。今回フィールドワークを行った鶴岡八幡宮では毎年9月14日から16日まで開催されてます。
名前の通り八人の乙女が舞う「八乙女の舞」ですが、日本語では、舞(まい)と踊り(おどり)という2つの言葉がダンスを表す際に使われますよね。一般的に言われる違いといえば、舞は音楽に合わせ、足が地面と密接に接触しながら行われる一連の動きで、踊りはよりダイナミックな動きを伴っているものだと言えるでしょう。例えば、神道の儀式では巫女が厳かに舞を行い、お盆という仏教の行事では祖先の霊を供養するためにより勢いのある盆踊りが行われます。一方、神輿渡御は地域の神を輿で運ぶ儀式です。渡御は神輿を担ぐ、あるいは天皇が輿で到着する際に使われる表現です。日本に住む方は馴染みのある光景ではないでしょうか。
二つ目の問は、「神道儀式のメッセージは、その美的表現においてどのように表現されるか?」というものでした。宗教における美学(aesthetics)の研究は、実践される宗教や日常生活に根ざした宗教に関する研究などとよく括られています。この問いは、舞や神輿を担ぐ姿(音楽、衣装、舞台演出、小道具、そしてその舞台となる風景など)からどのような宗教的メッセージが表現されているかと探っています。
三つ目の問いは、「神道儀式の主催者や実施者が意図したメッセージは、米国の日本系アメリカ人によってどのように認識されているか?」でした。当初は、「八乙女の舞と神輿渡御がその美的表現を通じて意味を伝え、日本系アメリカ人キリスト教徒がその意図されたメッセージを理解できるだろう」という仮説を立てていたので、この質問へと至りました。
上記の3つの質問は本研究の実証研究において出発点として役立ち、インタビューの質問にも組み込まれることとなりましたが、最終的な結果や神学的見解にはさほど重要ではなくなったかと思います(特に修論を書いていく中で、本研究自体が演繹的ではなく帰納的なまとめ方が適していたため)。本論文が形取った帰納的フレームワークは「グラウンデッド・セオリー(Grounded Theory)」というものです。
「グラウンデッド・セオリー(Grounded Theory)」とは?理論的枠組を知ろう。
グラウンデッド・セオリーは、データの詳細な分析から理論を発見するための方法であり、同時にデータと理論の位置づけを説明する方法論でもあります。特に、本研究のように類似した事例についての文献がほとんどない場合や、既存の概念が不十分であったり、特定の事例(たとえば宗教現象)について異なる方法で概念化することを目指す場合に適している方法論です。
実際にどのように使われているかと言いますと、まずはコーディングとサンプリングのサイクルが納得がいくまでひたすら繰り返されます。その後、コーディングによって抽出された概念やカテゴリーから、データに基づく理論の形成へと進みます。研究が進むとともに、新たなサンプル、インタビュー、ケース、文書などが選択されて追加されていき、最終的にカテゴリーや概念が新しく出現しなくなるまで続けていくのです。[3]
つまり、理論的飽和に達したとき、データから導き出された概念やカテゴリーに基づいた理論が形成される、といった考え方をもとにしてます。
理論形成に適しているグラウンデッド・セオリーですが、その柔軟性とユニークな状況への適応性により評価される一方で、結果が研究者の既存の概念的・理論的知識に左右されやすいという理論的・認識論的な問題も指摘されています。また、データに対して理論を押し付けてしまうリスクも伴います。これらの問題を避けるため、グラウンデッド・セオリーの過程全体で透明性を提供することが強く推奨されています。
私がこのグラウンデッド・セオリーを使うに至った背景ですが、簡単にお話すると、本研究を実施するに至った動機や研究の過程、経験、成果を包括的に、かつクリエイティブに検討したいという願いがあったからです。また、この研究の対象(例:ロサンゼルスの日本系アメリカ人キリスト教徒)も焦点(例:神道儀式の認識に焦点を当てている)もニッチで関連する先行研究があまり存在しないため、特定の文脈に特化した研究に適しているグラウンデッド・セオリーがふさわしいと判断しました。
グラウンデッド・セオリーを元に形となったこの研究。日系アメリカ人が神道の儀式をどう認識しているのかというニッチな研究ではありますが、実は長くて大切な歴史や貴重な文化の枠組みの上に成り立っているのです。次回はこの歴史的そして文化的背景についてご紹介します。
Bis Gleich!
参考文献
[1] Eiichiro Azuma. In Search of Our Frontier: Japanese America and Settler Colonialism in the Construction of Japan’s Borderless Empire. Asia Pacific Modern 17. Oakland, California: University of California Press, 2019.
Roger Daniels. The Japanese American Cases: The Rule of Law in Time of War. Landmark Law Cases and American Society. Lawrence, Kansas: Univ. Press of Kansas, 2013.
Duncan Ryūken Williams, Emily Anderson, and Japanese American National Museum (Los Angeles, Calif.), eds. Sutra and Bible: Faith and the Japanese American World War II Incarceration.First edition. Los Angeles, California: Kaya Press, USC Shinso Ito Center for Japanese Religions and Culture : Japanese American National Museum, 2022.
[2] Heidelberg University. “Fundamentals (SFB 619 Ritualdynamik),” June 30, 2013. https://www.sai.uni-heidelberg.de/sfb619/sfb619/www.ritualdynamik.de/indexa4a3.html?id=22&L=1.
[3] Michael Stausberg and Steven Engler, eds. The Routledge Handbook of Research Methods in the Study of Religion. London ; New York: Routledge, 2011. 256.