ブンゲイファイトクラブ3・由々平秕によるグループDの評
鮭さん「イカの壁」
4点(印3+技4+題3+思1/細1)
一文一文の完成度がすさまじいです。最初はちょっとやんちゃな男の子の砕けた口語体という趣きなのですが、そこに絶妙なテンポで「泣きだしてしまって」や「下がってしまうよ」「…だもの」といった謎の端正さを織り交ぜるのも、「つぶらな瞳をしてやがる」のあとに「ポンポの野郎」と主語を置き直してみせるのも、「松の木」を大きさの尺度とするのも「愛さん」の体言止めも、涙が出るくらいセンスが冴えきっている。イカの周囲に「白い棺桶(shiroIKAn-oke)」や「怒り(IKAri)」「新幹線(shInKAnsen)」「威嚇射撃(IKAkusyageki)」などを散りばめ細かく「イカ」音を活かしてくるのもニクい手つきです。語りそのものの面白さに比べれば出来事の顛末などほとんどどうでもいいくらいで、オチもとりあえず話を畳むための方便にしか見えず、それも悪くないのですが、にしても少し投げやりにすぎる気がしたので印象点は3に留まりました。ちなみに設定上は子供であるはずの語りがだんだん年齢不詳のストーリーテラーへと純化されていくその過程そのものをエンタメ化している本作もまた「矢」と同様(方法論は違いますが)実質的には〈子供の語り〉ではないと考えます。
瀬戸千歳「生きている(と思われる)もの」
2点(印2+技3+題2+思1/細0)
奥行きのある世界設定に無理なく読者を誘い込んで、語りきるでも語り残すでもないちょうどいい出来事のスケールをうまく塩梅しながら掌編にまとめあげる手つきは巧みだと思いますし、背後霊を数えるというアイディアも魅力的です。ただ怪異に取り憑かれた幼女の行く末や女性にしがみついて腰を振る生き霊のイメージの不快さは、私には少し度を超したものでした。完全に淡々と描かれていたらまだよかったのですが語り手が微妙に心を動かすので、その心の動きと自分のより大きな不快感との半端な落差が余計に居心地悪かったわけです。もちろんこれ自体は私の個人的な感じ方の問題にすぎないのですが、全体的に出来事や状況に対する「私」のスタンスが微温的で測りがたく、語られる画の鮮やかさに比して語りそのものが無個性で精彩を欠いた感は否めませんでした。
小林かをる「お節」
3点(印3+技4+題4+思2/細0)
聡子の夫の暴力やその息子の自死、高慢なまま老い衰えていく美禰子、それらを忍従の表情で眺めつづける語り手のしたたかなデタッチメント――雰囲気は終始陰鬱です。総じて控えめな文飾のなかに狙い澄まして置かれる「まだらのように変化する四季」のような生理的に毒々しい比喩や、スパンの長い経緯や出来事を語りながらもナプキンや錆びたサッシなど細部の具体へと急激に絞られる焦点操作も効果的でした。海が見える高台の軒先に散るお節のイメージは「空に消えることはない」という(元々ありえないことを強いて否定することでありえなさの無情を喚起する)一文とともに強烈な後味を残します。とにかく文の風格は圧倒的でした。ただし状況全体に対する深い嫌悪感を、あたかも客観的な観察者然とした叙述のなかに公然と滲ませて素知らぬ顔の語り手はどこか独善的でもあり、読み手は彼女をも決して信頼することができない。それが図られた効果なのか作者と語り手の批判的距離の欠如なのかはやや曖昧です。
生方友理恵「カニ浄土」
3点(印3+技3+題3+思2/細0)
つい読み飛ばしそうになりますが、このカニの足は五本です。足が奇数本の生き物という時点で私たちは描かれた世界が何か原理的なところで狂い病んでいることを予感すべきなのでしょう。おそらく利権と政治的な思惑によって主導されたのであろうテラフォーミング政策の歪みの全てを引き受ける貧しい入植者たち。リアリズムの領域で幾度となく文学的主題となってきた構図をSF的な舞台設定のもとで再演する試みも、またそれが喚起する倫理的な提起も決して全く新奇なものではないと思います。ただこれほどに切り詰めた無駄のない叙述でそれをなしたのは確実に一つの達成でしょう。ちなみに軌道エレベータが「ヤコブの梯子」と形容される傍ら、同じ綽名をもつはずの雲間から差し込む陽光を敢えて「太陽光線」という生硬な語彙でのみ呼ぶ結びの一文も、作中世界の〈神〉が何者であるかを冷酷に突きつけて見事でした。
藤崎ほつま「明星」
4点(印4+技4+題3+思2/細1)★
ゆいの肉声によってなされる三つの切断を除いては改行もない、迷宮のように息の長い叙述は一瞬の油断も許しません。例えば冒頭「今はもう撤去された歩道橋」の「今」は「いつも」と文末の現在進行形によって即座にゆるがされ、三文めではいつしか「今」がありし日の歩道橋のうえに引き戻されています。そこから「今日」の学校での出来事が回想されるのですが、しかし科学教室での囲碁の「思い出」はあたかもはるか昔のもののようで、その傍証としてそれを反芻するつむぎはこの春からゆいと「まだ一度も会話をしたことはない」。時制の乱れに困惑しつつ、読み手はその「さらに数年」前の出来事であるはずのたちばなさんの葬儀がまさに「今日」おこなわれたのだとされるところで、この語り手が――あるいは「歩道橋の真ん中」という場が――永遠の現在に閉じ込められていることを悟ります。そこはあらゆる今が輻輳し混濁する特別な地点です。最後、手の感触を「思い出しながら」ともに帰路に就くという二人の姿は、それがつむぎの夢想であることをやわらかく明かすようで、思い出しているのがつむぎなのかゆいなのかすら実は判然とせず、歩道橋がとうに撤去されているはずの最初の「今」にはついに回帰することなく語りは閉じられてしまう。同様の関係性とエピソードを用いながら、もっと当たり前にきれいで、しかし凡庸な物語を紡ぐこともできたはずですが作者はそれを拒みました。その選択を畏怖しつつ讃えます。
伊島糸雨「爛雪記」
3点(印2+技4+題3+思1/細0)
完成度については言うまでもないでしょう。作者は自らのポエジーをいくつかの鍵語(四季とそらを支える季神たち、二つの月と太陽そして孚詩蝶)にのみ集中させ、そのアラベスクな印象とは裏腹にそのほかの語彙や修辞法は無駄な装飾を一切排してきわめて端正です。そのバランスが世界観の提示に終始するこの作品を嫌味なく、また容易に厭かぬよう読ませえているのであり、筆力は圧倒的です。ただしこのあまりにも隙のない幻想は、一方では未だ描かれぬ世界の広がりを保証しつつも、たとえそれが描かれたとして私たちはあくまで作者の美意識によって約束されたものしか見ることができないだろう――したがってある意味では全てがここに書かれたものに尽きているのだ――という、奇妙な狭さもまた感じさせます。壮絶な美による殴打は確実にヒットする限りにおいて無敵なのですが、よけられてしまった場合に読み手をそれ以上、拳のリーチする距離に誘い込む術をもちえない。完璧さがもつ逆説的な弱さが、この作品にはあるように思いました。
以上より、4点獲得作品が二つありましたので元の合計点が多い「明星」の藤崎ほつまさんを勝ち抜けファイターに推します。
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