フィリピンのダバオで元じゃぱゆきと友達になった話
ジェンダーの平等について考えるとき、必ず思い出す人がいる。
2015年1月から3か月間、私はフィリピン南部ミンダナオ島にあるダバオ市に語学留学していた。ダバオ市は首都のマニラやリゾート地であるセブと比べると知名度が低いが、フィリピン第3の都市だ。第16代大統領のロドリゴ・ドゥテルテ氏が過去に22年間市長を務めており、Davao Death Squads(通称:DDS、直訳:ダバオの死の部隊)が法律違反者と麻薬密売人を射殺することから、フィリピンの中で最も治安が良い都市としても知られていた。
滞在していた英語学校はダウンタウンから離れたビーチリゾートの中にあり、大きなショッピングモールに買い物に行くには「jeepney」と呼ばれる乗り合いバスに1時間ほど乗らなければならなかった。よって授業のある平日は学校の外へ出ない生徒が多かったが、私は運動不足を解消するため休み時間や放課後に学校の目の前に広がる海岸を歩くことを日課としていた。
海では日が落ちるまで、地元の子どもたちが服を着たまま泳いでいる。彼らは非常にフレンドリーで、外国人である私の姿を認めると、警戒する様子もなく拙い英語で話しかけてきた。一人の子どもに構うと、その友達や兄弟が次から次へと現れることに驚かされる。彼らの話から、砂浜を西に向かって歩き続けると漁師の住む居住地域に行きつくことが分かった。そこの住民は、ビーチリゾートの所有者の敷地内である土地に、自力で竹や木を用いた高床様式の家を建てて暮らしていた。どれも、子沢山のフィリピンの家族がかろうじて全員眠れるくらいの小さな家だ。子供たちに勧められるまま中へ入ってみると、木材を組んで作られた床から地面が覗き、何かの弾みで穴が開いて下に落ちてしまいそうな不安に駆られた。
その地域に、ジェニーという日本語を話せる女性が住んでいた。他の住民たちの家は密集しているのに対し、彼女の家は少し離れた高台にあり、大きさも他の家の倍以上あった。その地域の住宅としては珍しく寝室が二つに分かれている。一部屋はジェニーの両親のもので、もう一つは彼女と恋人、当時9歳になる娘の部屋のようであった。更に、離れには学校が夏休みの間だけ滞在しているという甥っ子が2人寝泊まりしていた。
偶然にもジェニーと同い年ということもあり、親近感を覚えた私は、ほぼ毎日暇を見つけては彼女の家に通っていた。強い紫外線を常時浴び続けているためか、大抵のフィリピンの女性は25歳を超えると実年齢よりも老けて見えたが、ジェニーは27歳という年齢でも一際美しかった。彼女の一人娘ジェニエイスも思わず見とれてしまうような美少女で、ほかの子どもたちから一目置かれるほどであった。それほどの美しさを持っていながらも非常に内気で、遠慮がちのこの少女を、私は特別かわいがった。彼女の他の家族は皆、私に対して非常に友好的で、訪ねる度に、海で採ったばかりの魚や、パームワイン(Palm wine)と呼ばれる密造酒などを勧めてくれた。
2004年、ジェニーは単身日本に渡り、三重県でホステスとして働いていたと言う。初めてその話を聞いたとき、私は自国が未成年の外国の女の子を水商売に従事させていたという事実を知り、忸怩たる思いでいっぱいになった。そして「もしかしたら、日本での生活は辛い経験だったのかもしれない」という不安に駆られ、軽率に日本人であると自己紹介した無知な自分を恥じた。しかし若干16歳で親元を離れ、慣れない土地で働かなければならなかったというのに、彼女は全く悲愴感なく楽しかった思い出ばかり語るのだった。
私がアポイントなしで訪ねても、ジェニーは殆どいつも在宅していた。特段何かをしているという風でもなく、軒下に座ってただボーっとしているように見えた。彼女には1歳年下の恋人がいたが、彼はたまに近所の住民とともに漁に出る以外は、密造酒を飲んで酔っ払っていた。私が知る限り、一家の現金収入は「サリサリストア」と呼ばれる日用品を販売する小規模小売店の売り上げと、70近いジェニーの父親が三輪タクシーを運転して稼いだ乗車料金だけだ。私は、彼らがいつも「お金がない」と言って色々なことを諦めながらも、誰も定職についていないことを疑問に思っていた。どうして働かないのか尋ねると、「働いても、もらえるお金が少ないから」と言う。「少なくたって、何もしないより少しでもお金を稼いだほうが家計の足しになるじゃないか」と思ったが、差し出がましいと思われたくなくて言葉を飲みこんだ。そういう時彼女は必ず、「また日本に行って働ければ、稼げるのに」と言うのであった。
ある時ジェニーが、寝室から一冊のアルバムを持ち出してきたことがあった。アルバムの中には、日本に滞在していた頃に使い捨てカメラで撮影したという写真が数多く仕舞われていた。私はまだ少女だった彼女が、体のラインを強調したセクシーなワンピースを着て、他の女の子達と並んでいる写真や、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの大きな地球儀の前で、腰に手をあててポーズをとっている写真を興味深く眺めた。そういった写真の中に、彼女が40~50歳くらいの日本人男性とキスをしている写真が混じっていた。動揺を隠して「これは誰?」と尋ねると、彼女は恥じる様子もなく日本語で「社長」と答えた。
帰国の前日も、私は彼女の家で過ごしていた。彼女の家にはコインを入れると曲が流れるカラオケマシーンがあるのだが、この日私は、あるだけのコインを出して子どもたちに歌を歌わせていた。夜に近づき、ジェニエイスが唯一歌える洋楽、ブリトニー・スピアーズの「Everytime」を歌うのを聞いて、涙が止まらなくなってしまった。子供たちは驚いた様子でこちらを見、「どうして泣いているの?」と尋ねる。「皆と会えなくなるのがさみしい」と言うと、彼らは屈託のない笑顔のまま口々に「今度はいつフィリピンに来る?」と聞いてくる。
「まだわからないなあ。日本に帰って、仕事をしないと…」
いよいよ、日本での会社勤めが現実的に思えた。すると、珍しく「サンミゲル」というフィリピンのビールを飲んでいたジェニーが、
「Yuiの社長は優しい?」
と、日本語で問うた。
その時私は、彼女にとっての「社長」は、私たちが日本で意味しているそれとは違うことに気づき、なんと答えればいいのかわからなくなった。そして、フィリピン人の女性である彼女にとって、日本の「仕事」という言葉が即ち水商売を指し、他の意味を持たないという不平等な現実を目のあたりにした。
帰国して、私は日本におけるフィリピンパブの成り立ちについて調べてみた。そこで分かったのは、1980年代以降、多くの貧困な家庭のフィリピン女性が「興行ビザ」を用いて日本に出稼ぎにきていたという歴史的事実だ。「興行ビザ」は「タレントビザ」とも呼ばれ、本来なら芸能人や歌手だけが認められるはずものであるが、実際には歌やダンスが出来れば良いという曖昧な規定の下で発行されていたという。そういった条件のもと日本に来た女性たちは「じゃぱゆき」と呼ばれ、キャバレーやスナックでホステスとして働いていた。
来日フィリピン人の数は2000年前後に7万~7万5千人にのぼり、ジェニーが来日した2004年には8万人強となり、最盛期を向えた。
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