お正月、おじいちゃんとパズルの夜
明けましておめでとうございます。芸能人格付けも箱根駅伝も「新・暴れん坊将軍」もおわって仕事始めの1週間のスタートです。みなさんどのように年を越しましたか?
いつもより人数の少ないお正月だったので
「今年こそのんびりできる」と思っていましたが、もちろんそうは問屋が卸さない。
今年の我が家の覇者はパズルでした。
気づけば我が家のエンタメを占領していたのは、ディズニーの『ライオン・キング』と『マーベルヒーローズの1000ピースパズル』。コロナ禍に買った2つのパズルがいつの間にか引っ張り出され、子供達と友人たちが引っ付きもっつきして取り掛かる様は、他の何にも似ていない不思議な光景でした。
なんなんでしょう?パズルって。みんなが頭を寄せ合って何かに一生懸命になっていると、興味がなかっ人もいつの間にか手が出したくなってくる。
始めたら終わりたい。手に取ったピースをちゃんと居場所に置きたい。あの正解の居場所にピースがハマる時の「サクッ」とした軽やかな適合は、ガラスの靴を持って「あなたがシンデレラだったのですね」と言った王子の気持ち。
1000ピースのパズルはその「あなただったのですね」が1000回訪れるのです。薄くて優しい麻薬です。結局時間を忘れてパズルに夢中になる年越しとなりました。
1000ピースパズルを2個完成させたのに、まだ終わらないお正月。
おばあちゃんがぽつりと言いました。
「そういえば、昔うちでもいろんなパズルをやったわね。40年以上前だけど、家族3人でね。まだどこかにあるはずよ。」
その言葉を聞いた瞬間、私たちはまるで冒険の始まりのように家中を探し回りました。そして押し入れの奥から出てきたのは、年季の入ったパズルの箱が5つ。黄ばんだパッケージには、細かい海外アーティストのコミカルなイラスト。
人が多いぞ。グラデーションの空があるぞ。
「懐かしい!」とおばあちゃんが声を上げ、子供も興味津々で箱を開けました。
「これ、昔おばあちゃんも作ったの?」と長女が聞きます。
「そうよ。でも、これだけピースが小さいと、途中で投げ出したくなるのよね。」と苦笑いするおばあちゃんの横で、子供たちはやる気満々でとりかかりました。
パズル開始。進むと難所がやってくる
そんなわけで、新年早々の我が家のリビングには、過去と現在が交錯したパズル大会が開かれることになりました。最初は順調。明るい色のピースや、縁の部分を優先的に探し、家族みんなで黙々と進めます。
「同じような顔のキャラクターばっかりだなあ」「むずかしー!」そう言っていた子供たち。でもじーっと見続けてるとだんだん「どのキャラクターも顔が違う」「体つきが違う」と言い始めます。
わたしもお手本イラストを穴が開くほど見て、「この足は誰の足だ?」ということが判別するまで細かく見続けてると、パズルの言語みたいなものがわかってくる気がしました。
考古学や古典に向かい合う気持ちに似ています。
初見では「この巻物を読んだり理解するのは無理でしょ・・・」と思っていても、見続けて触れ続けると【その世界の言語】に触れた!と思う瞬間があるのです。
ロゼッタストーンを現代の言葉で解読した研究者のように、この絵の言っていることがわかる、と思う瞬間がくるのです。
このキャラクターがどこの誰で何をしている場面なのかわかる。
意思を持って作られた物なら、いつかきっとどんな難解なものでも『わかる』と思う瞬間が来るんだろうなぁと思いながら、小さな剣先しか見えないパズルのピースをぐるぐる回し持ち、みんなで小さい一歩を重ねていきます。
しかし、完成が半分を超えた頃、いよいよ難しい部分ばかりが残る事態に直面しました。背景がほとんどないグラデーションのかかった空部分より、小さな同じ服装のキャラとレンガのみがあるようなところの方が難しい。
子供たちのペースも少しずつ落ち始め、「これ、終わるのかなあ」と弱音がちらほら聞こえたその時、突然おじいちゃんがやってきました。
「お前たち、何してるんだ?」
83歳になるおじいちゃんは、どんどん目が悪くなり、細かい作業はほとんどしていません。あんなに好きだった新聞も本も「目がつらい」と触れなくなっています。日常もソファに深く座り、いやほぼ寝た状態で鬼平犯科帳の録画を見ているだけ。
でも、そんなおじいちゃんが椅子を引いて座り込むと、ピースを1つ手に取りました。
え!おじいちゃん、やるんですか!!!
おじいちゃん、参戦
おじいちゃんの参戦に、私の緊張感は高まります。
視力も衰え、手元も少しおぼつかないおじいちゃん。43年ぶりの懐かしいパズルを当時一番熱心にやっていたのはおじいちゃんだという話。つまりお好きなんです。その好きだったパズルが今の自分ではなかなかできなかったら、その43年の老いの実感で悲しくなってしまわないだろうか・・・。
案の定、ピースを手にしても「上下が違う」「サイズが合わない」といったミスが続出。私はつい先回りして、「これをここに置けば…」と簡単にはまりそうなピースを用意して、おじいちゃんの手元にそっと置いたり。でも、おじいちゃんはそれをあっさり見逃して、また別の場所を試し始めてしまいます。
「ここですよ」と教えたら楽になるだろうけれど、それはおじいちゃんのプライドを傷つけそうな気がして、どうしても言えませんでした。
目を使いすぎて「頭が痛いな」と時々つぶやくおじいちゃん。
でも席を立つ気配はないのです。
ピースを握りしめながら、小さなつぶやきを繰り返し、試行錯誤を続けています。その姿は少し切ないけれど、でもパズルを好きな気持ち、忘れていた気持ちをおじいちゃんが「手放さないぞ」と思って握っているようでした。
おじいちゃん、まだまだやる気だ・・・!
おじいちゃんとWちゃんのコンビ
そんな中、意外な展開が訪れます。おじいちゃんが8歳のWちゃんに声をかけたのです。
「これ、どこだと思う?」
Wちゃんは、本格的パズルに挑戦するのはこのお正月が初めて。でもいつの間にか我が家で一番の「特定班」になっていました。
箱の絵をじっと見てはピースを特定する根気!。
ある!この子には依頼を完遂する根性がある!
おじいちゃんの問いかけに、Wちゃんは得意げにイラストを見つめ、「ここだよ!」とピンポイントで教えます。
「おお、ここだと思った!やった!」
おじいちゃんが満面の笑みでガッツポーズをすると、Wちゃんも大喜び。
「次のお仕事はない?」と催促するWちゃん。
「おお、じゃあこれもどこだと思う?」と依頼するおじいちゃん。
その瞬間、2人のコンビが成立しました。
難しい部分が次々と埋まっていく様子を見て、私は思わず感心です。私が余計な助け舟を出すより、ずっといい連携が生まれているじゃないですか。「おじいちゃんをがっかりさせたくない。恥をかかせたくない」というような大人の思惑を間に挟むより、よほどバランスのいい連携です。
パズルの不思議な魅力
パズルってなんなん?と何日か思い続けた自分が、そもそもその力のうちに取り込まれていたのですが、パズルには人を巻き込む力があります。
一度始めたら最後、なかなか止められない。
全てのピースがぴたりとはまるその瞬間を目指して、手を動かし続けてしまう。
でも、それだけではないのです。パズルは、無理やりはめようとしてもうまくいきません。でもどのピースにも必ず居場所がある。その理屈はちょっと人間関係に似ています。
「シンデレラの足にガラスの靴がはまる瞬間」と捉えた1000回の中に、山も谷もあるのです。
雲のところはよろしくね、大砲のところは私がやるね、鳥が飛んでたらこっちにちょうだいね。
ピースが多ければ多いほど役割が振られ、私にも、そして誰にも、ぴたりとハマる居場所がある。
そんな小さな理想が、この1000ピースの絵図に込められている。
完成と余韻
深夜近く、ついにパズルが完成です。その瞬間、家族全員が「イエーイ!」と歓声を上げ、いつもはあまり興味を示さないパパがその様子を動画で撮っていました。
そして同時に、少しだけ寂しい気持ちもこみ上げてきました。この数日間、みんなで夢中になった時間が終わってしまった。それはお正月が終わってしまったのと同時のことでした。
「また別のパズルをやろうか?」と誰かが言うと、おじいちゃんは「他のはもっと難しいぞ・・・黒い海が広がるイラストのやつなんか、何度ももうやめたいと思ったんだぞ・・・」と恐る恐る言います。
43年前のパズルは1ピースも欠けることなく珍しい三角の筒に入っていて、歳をとったおじいちゃんとおばあちゃんにもう一度触れてもらえて嬉しそうです。
お正月みたいな「みんなにすこしだけ余分に時間がある」ことの尊さ。少人数でやるよりももっと楽しくなることがあること。
それを感じて私たちはまた誰かと一緒に何かをしたくなるのでしょう。
一人の時間と同じくらい、誰かとの「遊び」に夢中になれること。それは無意味であればあるほど本当は意味があるのです。
皆さんの今年が、いつか完成されるパズルのようにひとつひとつあるべき場所にハマる毎日でありますように。
今年もよろしくお願いします。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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