人生には(ときどき)集中線が必要だ
まずは私の夫が突拍子もなく送ってきたLINEを見て欲しい。
なんだこれは…
絵をパッと見て国語の便覧だというのはわかるが、夫が何を言いたいのかよくわからない。絵をまじまじと見る。マルのところが一番目立つ。
首…?
私にはこう見えた。御簾の向こうに体があって変な姿勢してる絵。国語の便覧でそんなことあるわけないのに。
そしてまたよく見たら、首を切られて血が噴き出してる貴族がいた。
おちゃらけた格好をしてるとか言ってる場合じゃない、とんでもない場面の絵ではないか。
「集中線をつけるべき」
『集中線』とはつまり、漫画でよく見る迫力や驚きを表すための放射線状に描かれた線。映画でもドラマでもアニメでもない、漫画・イラスト独自の技法である。
集中線さえあれば、私と夫がしたような誤解はしない。つまりはこうだ。
ちがう。これではまだ「変なカッコで小学生並みにふざけてる人が発見された」と伝わってしまい、便覧がギャグ漫画になってしまう。
こうだ。これが正しい使い方だ。集中線の中心を切られて飛んだ首ではなく、首を失った胴体に据えることで、「討たれた蘇我入鹿の悲劇を捉えた絵巻」としての要を満たす。
やれやれ集中線は使い方が大事だな、と変なLINEのやりとりで思っていた時、友人がピアノのコンサートに誘ってくれた。
辻井伸行さんのショパンをテーマにしたピアノコンサート。
第一幕は辻井さんのピアノソロを40分。一階の2列目という良席で、辻井さんの座るピアノがすぐ近くで見える位置。久しぶりのクラシックコンサートでワクワクでドキドキ。
辻井伸行さんの入場からはずっと七色に振動する水を飲むようだった。
生の音、生の音の波動。ピアノの鍵盤からとてつもない芳醇な音がする。
ああこれがグランドピアノの音だ。
グランドピアノは弦が長く、面積の広い響板に振動させて音を響かせるから、うちにあるアップライトピアノでは出ないダイナミックな音がする。重厚な響きが転がるように耳に肌になだれ込む。
ハンマーが弦にあたり、振動が響板に伝わる事で響く音。あの大きな響板から、辻井さんの指先から、休むことなく多彩な音がする。
するのに。
あらゆる映画や舞台のどこかで「10分寝てしまう病」を罹患している私は、意識が朦朧と…………
抗ってはいるんですよ!猛烈に!必死に!でも意識がデカめのアドバルーンに引っ張られて抜けていく。誰か起こしてほしい。あのアドバルーンを割ってほしい。
ハッ!!!!
意識を取り戻した時は第一幕の終盤。隣の友人に私の眠気アドバルーンが見つかってないかヒヤヒヤしながら(呆れられたくない。私だって。優しい友人だからこそ!!)「素敵でしたね〜」とにこやかに笑う。
「でも寝てたじゃん」と言われはしないかと肝を冷やしながら、休憩の20分。サロンに出て友人が持参してくれたシュークリームを頂き、第二幕こそは意識を待っていかれないようにしようと心に誓う。
第二幕は日本シンフォニー交響楽団とのピアノ協奏曲第二へ短調Op.21。
2列目だからピアノと第一バイオリンのみなさんしかほぼ見えない。
その時友人が「これ使ってみますか?」と差し出してくれたのが…
時計の修理をする職人か、宝石のクオリティを判定する鑑定士か、ギャンギャンにどこか一点を凝視するために作り出されたに違いないこの風貌。しかも名前が「カブキグラス」。お値段33000円(後で調べてヒッとなる)。
舞台鑑賞用のオペラグラスのスゴいやつ。
わああ、使ってみたいです…とお借りしてギャンギャンに凝視してみようとしたら、そもそも2列目で舞台が近いから角度的に見れるものが逆に減る…
でも…
第一バイオリンの首席、コンサートマスターの斜めの顔がはっきり見える。楽譜も見える。50歳を少し超えたくらいの男性…これまできっとずっと音楽一筋、バイオリン一筋なんだろう。子供の頃からどんなふうにバイオリン道を歩いてきた人だろう。サントリーホールはきっとこの人を何度も包んできたんだろう。日本センチェリー交響楽団の首席バイオリニストを務めるこれまでにどんなことがあっただろう。
肉眼ではよく見えなかった指揮者の横顔もはっきり見える。少し微笑んでるような口元。優しく振るタクト。目の見えない辻井伸行さんをエスコートしてきたのも指揮者の秋山和慶さんだ。辻井伸行さんとのコンサートには打ち合わせや練習でコツを色々つかむことも必要だろう。きっと懐の広い指揮者の方なんだろう。辻井さんは指揮者のタクトには反応しないけど、オーケストラの皆さんが秋山さんのタクトを目で追ってるのがよくわかる。
客席までもよく見える。サントリーホールの奥の席に座る姉妹が熱心に演奏を聴いている。小学生と中学生の女の子。絶対ピアノを習ってるのだろう。目がずっと開いてる。寝てない。ピアノコンサートのチケットを取ってくれて連れてきてくれる保護者がいるんだなぁ。すごいなぁ。
その少し下の席にもっと小さい男の子がいる。小学校三年生くらい?この子もきっとピアノを習ってる。何を感じてるだろう。どう聴いてるだろう。寝てない。えらいな。
正面左端の席の年配の男性は,絶対だれかの身内かオーケストラの関係者なのでは、というくらい身体が前のめりで、ちゃんと弾けているかを一音ずつ追うように確かめながら見つめてる。時にはハッとし、時には眉毛を顰めてる。コーチ?監督?コンサートに監督っているのかな。誰のことを見てるんだろう。誰のことが大切な人だろう。この人にとって今日はどんな夜だろう。
そして辻井伸行さんの背中。背中側から指先が見える。鍵盤を弾く指が見える。盲目ゆえに楽譜を置かない辻井さんの弾くピアノ。磨き上げられたピアノ正面の鏡面に辻井さんの胸元が映る。その奥に、黒いピアノの奥に、ショパンが見える…。
正確には、ショパンの顔さえ私はろくに知らないけれど、辻井さんの旋律に乗って、なお遠くに行こうとするショパンを、振動を伝えるピアノの奥に見るようだった。
ギャンギャンに凝視することのできるカブキグラスでいろんなところに視線を移しながら、その先のあらゆる場所に私は集中線を見た。
集中線の当たった人は、その瞬間の主役だ。
その見えている表面の一歩奥、心の動き、目の動き、着ている服,ついているシワ、全部にほんとうは意味があって、これまでの全てに意味があって、ここにいることに歴史があるんだと集中線は言う。
集中して見ろと言う。
集中して見たらどの人もモブじゃない。
さっき見ていた正面の席の小さい男の子は九時を過ぎるアンコールの最中でもう寝てた。ショパンのスケルツォ第3番は目を見張るほどの、耳が追いつかないほどの難曲なのに、お前ってやつは。これから帰って宿題があるかもしれない。お風呂も入れるかわからない。それでも誰かに連れてきてもらったこの夜が、少年の歴史の一部になるんだろう。いつか発動する細胞の記憶になるんだろう。
アンコールの2曲目に「雨だれ」を弾いてくださって、辻井伸行さんのコンサートはフィナーレとなった。とても幸せそうに、愛おしそうに会場からの拍手を浴びるピアニスト。万雷の拍手は何分も続く。カブキグラスがなくとも、今夜の主役は辻井さんだ。
カブキグラスを借りた第二幕ではアドバルーンに意識を持っていかれることもなく、とても充実の鑑賞ができた。カブキグラスを貸してくれた友人は、もしかしたら仏のように心が広く全てお見通しで、寝てしまう病を抱える私に気づいてカブキグラスを貸してくれたのかもしれない。
おかげで私はショパンにさえ会えた。
人生には集中線が必要だ。
どんなに大事な時でも眠気に襲われる。人が人でなく「数」に思えたり、通り過ぎるのをただ願うだけの障害物に見えたりする。何にもないと思って踏んだ草が咲いたばかりのタンポポだったりする。
カブキグラスをいつもつけるわけにいかないけど、あのギャンギャンの倍率でものを見ることは肉眼では叶わないけど、時々集中線のスイッチを入れたい。
「何にもない」と思う瞬間がいかに面白いかわかりたい。
集中線は、自分の集中力を可視化する卓越した表現方法なのだから。
蘇我入鹿、ありがとう。変な格好してるとか思ってごめんね。
蘇我入鹿暗殺のこの絵巻の場面についてわかりやすかった良いブログを貼っておきます。勉強になる〜。
定額メンバーの皆さんには集中線の正しい使い方と、最近受けた眼科での出来事を綴っています。皆さん目は大事に・・・!
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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