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言葉にすると「そこに無いこと」がわかってしまう

秋の爽やかな時間が少しずつ少しずつ「ちょっとひんやりしてきた」「ひんやりの時間が早くなってきた」と移り変わる秋本番です。
皆さんお元気ですか。

突然ですが、わたしは「打ち合わせ」が苦手なのです。

打ち合わせはいろんな職種・業種であるかと思いますが、意思疎通やアイデアの交換、ブレインストームなど、自分以外の誰かとの化学反応を目論んでおこなわれる実地の面会のこと。漫画家にももちろんあります。

でもたぶん私はものすごく打ち合わせが少ない方です(比較したことがないので印象ですが)。

編集さんと会うのはいつも大好きなのですが、これから先の仕事の話が苦手で、「なんか・・・えっと・・・色々頑張ります」と言ってご飯食べて終わるのが関の山。

編集さんがご馳走してくれた美味しいご飯の一部


どうしてこんななんだろう、、、と考えてみたところ、私の奥底には「言葉に対する恐れ」みたいなものがあることがわかってきました。

言葉というのは不思議です。
私には常々「言葉にすると、そこにないことがわかってしまう」という感覚があって、言葉を大事にしようと思いつつ言葉に怯える部分があります。


ちはやふる42巻より

「いじめをなくそう」も「勝ちたい」も「美しい」も「泣いた〜」もなんなら「大好き」も「愛してる」も、言った瞬間に「そこにない」ことがわかるのです。
「足りない」ことがわかってしまう。そんな感覚があるのです。

「頑張ります」は、「まだまだ頑張れてない身ながら、この先は頑張る所存でございます」の省略形だし、「かわいいね〜〜〜」は「あなたに比べたら私なんてナメクジだっていうのに、なんであなたはそんなにかわいいの〜〜?」だし。

「愛してる」と言う時、自分の中に生まれる気持ちを言葉にするのならば、「欠乏の悲しい気持ち」です。大好きな気持ちがあふれているのに、きっとその対象はいつか死んだりいなくなったりすることがわかるのです。たまらなく惜しくて、それが「いとおしい」になって、いつか失われていくその人のことを引き寄せたくて、欠乏を噛み締めながら出てくる言葉が「愛してる」です。

「言葉にすると、ここには無いことがわかってしまう」と思うと同時に、無いからこそ言葉に引力が出ると思っています。

「自分の中に無いけど、欲しくて、引き寄せたいという思い」が全ての口にする言葉にはあるのです。

「ぜったい勝つ」も「勝ち」は手の中にないけど引き寄せたい。
「いじめをなくそう」も、いじめはあるけど「無い状況」を引き寄せたい。
「楽しかったです」も、今はもう「楽しい」の最高潮を失ってしまったけど引き寄せて覚えていたい。

「ここにない」ことがわかると同時に、「引き寄せたい」と思っていることがわかる。

勝って勝って勝っている人は言葉にする必要がなく、そのまま勝ち続けるでしょう。
愛に満ち満ちた人は、「愛してる」と言うより先に、たくさんの人を抱きしめに行っていることでしょう。
楽しい状況の真っ只中にいる人は「楽しい」と言うのも忘れて踊っているでしょう。

その状況を手に入れた人には言葉はいらない。その状況にない人は言葉を欲しがるけど、言葉にした瞬間「ない」ことになるから、どうやったって届かない。


編集さんがご馳走してくれた美味しいご飯の一部

つまり、
「これは面白い漫画のアイデアです」
そう言った瞬間に、ぐいーーーーーーーんと「面白い」が遠ざかる気がするのです。

私は物語を考えても「それを文章で伝えること」がとてもとても苦手で、なんならめちゃくちゃやりたくない。

歴代の編集さんもなんとなく困っていたことでしょう。打ち合わせしましょう、と美味しそうなレストランに連れていってもらって、ふわっと「なんか考えてます」としか言わずに平らげて帰るだけの漫画家。
ふんわりしたことしか言わないのに、急にボンと描いてくる漫画家。

どんな売り出し方をしたらいいのか先立って計画が練られないまま、ずっと待つことを強いられてしまう
書いてて辛くなってきました。申し訳ない。
だって言葉で伝えても全然面白くない(気がする)。全然伝わらない(気がする)。つまりはプロットにしても編集会議で落ちる(気がする)。

文書でパキッと表現したって面白い作品はたくさんあるんですが、自分にはそれがどうしてもできない。
漫画は漫画でしか伝えられないという思いが強すぎるのです。言葉に対する恐れが大きいのです。

言葉の何がそんなに恐ろしいか、何がそんなに「欠乏」かっていうと、一言で言えば誰でも使えるからです。嘘がつけるからです。「愛してる」も「勝ちます」も全部嘘でも言えるのです。


編集さんがご馳走してくれた美味しいご飯の一部

「ここにないこと」ではなく、「しっかりあること」を示す言葉があるとすれば、それは「作品にした言葉」なのではないかなと思うのです。

「作品にした言葉」と言うのは実は言葉ではなくてエピソードの繋がりで、その奥に思いを隠せる装置になっています。小説でも漫画でも短歌でも、エピソードの流れを追っていくうちに私たちの中にすでにあった記憶や感覚を呼び覚まして、「この感じ、わかる」という共感のフェーズに連れて行きます。

先日北村薫先生の著書「北村薫の歌合せ百人一首」を読んでいたんですが、その時にまた強く思いました。
これは、北村薫先生のセンスで選ばれた一章につき二つの短歌の断ち切り難いつながりを味わう一冊。
百人一首は全然出てこないのですが、現代短歌を毎日フルコースで365日味わえる気持ちになれる本で、通読するというよりは少しずつ読み進め、読み直すような本です(だって一章ずつがフルコースで50章あるから)

そのなかで、縦横無尽に現代短歌550首の解説と評を行う北村薫先生。しかし、私に一番響いたのは十六章のこの部分でした。
北村薫先生はこう書きます。

後者の歌は抜き出し、列記し、声をあげて読んだ。
私の言葉より、以下、それをできるだけ多く引こう。

▪️花冷えに傘さしくれしをみなごは40年前の和服のあなた
▪️楽しみはベッドに馴染む妻見ればもう徘徊はあらずと知るとき
▪️楽しみはベッドの妻が善ちゃんがそばにいないとダメなのといふとき
▪️楽しみはベッドの妻がいつまでも生きてゐたいと微かにいふとき
▪️節分の豆さえも妻と忘れたりもう鬼など恐くはないね
▪️記憶なきベッドの妻を見守れば雨降やまずさみだれの音
▪️願わくば妻臥すベッドに紐つけてあの町この町引きてゆきたし
▪️介護5のベッドに暮らせど妻はなお我を支ふる不思議な方です
▪️期せずして妻が死にたり明け方の3時3分と医師の告ぐこゑ
▪️昨日の午後妻めづらかに手に触れしあれが別れの合図であったか
▪️こんなにも軽くなったね美保さんの骨壷を抱き斎場を出づ
▪️妻もわれも心の傷の深ければ必死に二人でひとつになった
▪️産みたくて産めずにこの世を妻さりぬ骨壷のみを我に残して
▪️モナリザと妻の写真を並べるに誰が言うともこのままですよ

「北村薫の歌合せ百人一首」 十六 仰ぐ空 より

北村薫先生が、現代短歌の鑑賞本なのに言葉で解釈を添えずに歌を列挙していました。ここに抜き出したのはまだ半分ほどで、黒崎善四郎さんという歌人の歌を「できるだけ多く引く」ことをしたのです。
誰かの読み解きなどいらない。読むことで必ず読者に伝えられる感情がある。言葉はいらないのだということが強く伝わってきます。

この列挙された歌を読めば、他に一言もなくても伝わるのが「愛している」です。

私は多分漫画でそれがしたい。
「愛している」と言わずに伝える「愛している」を、絵とキャラクターに込めることを、得意としたいのです。

11月に読切が、12月に新しい作品が出ます。待っててください!

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