執念がないと誰かを深く知ることはできない
「穴守稲荷」「天空橋」京浜急行が羽田空港へ向かう途中の駅の名前が好きだ。異世界に行くしかないような、妖怪ウォッチのウィスパーに会えそうな、そんな駅が続いて、終点は羽田空港。
97歳の祖母が亡くなったと聞き、すぐさま飛び乗った飛行機の機内でこの文章を書いている。
祖母を私たち姉弟はずっと「ジェスのおばちゃん」と呼んでいた。
なぜかというと、「ジェス」という犬を飼っていたから。ジェスの記憶はほとんどないけど、かなり大人になるまで祖母は「ジェスのおばちゃん」で、今でも気を抜くと「ジェスのおばちゃん」と呼んでしまう。
祖母と言っても、血は繋がってない。色んなところに養子に出され、転々とした先々で「どこでもかわいがられた」と言う父には、血のつながった母もいれば血のつながらない養母も何人もいた。その中の一人がジェスのおばちゃんだった。
ジェスのおばちゃんはサバサバした人で、父の営む天ぷらのお店で働いていた。お店でよそうご飯の量がいつも「大中小」のサイズで正確で、早くて、そしてふっくらとよそわれたご飯は特別に美味しそうだった。
お彼岸の時、仏壇にお線香を上げに行くと毎回お小遣いをくれた。お正月はお年玉をくれた。20歳になっても、30歳になっても、結婚してもお年玉を忘れずくれるジェスのおばちゃんだった。
「もういいのに」と思っていたけど、その言葉を言えなかった。もう十分自分で稼げるようになっているんだと示すことが、いいことだと思えなかった。
「ありがとう」と言ってお年玉を喜ぶ、ジェスのおばちゃんにとっての小さな孫でずっといたかった。
私が産んだ子供を連れて、ジェスおばちゃんが過ごす老人ホームに何度か遊びに行った。おばちゃんはやっぱりひ孫たちにお小遣いをくれた。「このぬいぐるみも持って行きんしゃい」と羊のぬいぐるみを子供達にくれた。そのぬいぐるみはわたしが5年前におばちゃんにあげたものだったけど、遠慮なくもらって帰った。
ジェスのおばちゃんが90歳を超えたくらいから、「どうしよう。おばちゃんからもらったものを、私はきっと返しきれない。返しきれないで終わる」という予感があった。
「最近はお父さんの顔見ても、誰だか分からんくなってきたみたい」という様子を電話で聞いて、何もできない自分のなかに、たくさんの「お年玉袋」が浮かんだ。たくさんの「お年玉袋」は、私の中に積み重なっていて、それを束ねたまま私は動けない。
結局私はその「お年玉袋」を御霊前袋にして飛行機に乗っている。
とうとう聞けないままだった。どんな幼い頃があったのか、どんな歌が好きだったのか、どんな思いで義理の息子のそばにいたのか、どんな思いで孫たちにお年玉をくれていたのか、ジェスはどんな犬だったのか。
とうとう聞くことがかなわないまま、少し皺がれた声と、90歳を過ぎてもすべすべだった手を思い出す。
97歳。長生きしてくれたと思う。十分だったろうと思う。
「長生きしたね」と言える年齢の人や、関係の遠い人からまず訃報は届き、それはいつかじわじわと、じわじわじわと近いところから届くようになる。
いつか自分の一番近い人の訃報を、自分が出すことになる。
「それまでに心の準備をしていなさいよ。練習していなさいよ。あなたが大人になるまでがんばったんだから。」
サバサバとジェスのおばちゃんがそう言っているようだ。
「どうしよう。悲しい。私も行きたい。朝一の飛行機で間に合うか、ちょっと調べてみるね」と高田馬場に住む姉が電話で言う。姉もきっと同じ気持ちで、もらいすぎたお年玉袋を抱えてる。
ああおばあちゃん、私たちこんなふうに、トラウマみたいに思い出すんだよ。あのお年玉を。
ほかの関係の持ち方を知らないおばあちゃんだった。
そんなおばあちゃんが大事で、大好きだった。
誰かをわかることは、執念がないとできない。もっと執念深くわたしはおばあちゃんとの時間を過ごすべきだった。「大好き」だなんてよく知らないから言えることで、よく知ったら「面白い」と言ったにちがいない。一人の女性としてのおばあちゃんの後悔に呪いに喜びに欲望に、触れることができなかった。
「ほかの関係の持ち方を知らない」のは私の方だった。
怒った顔なんか見たことがない。孫に笑顔ばかり見せていたけど、その奥にきっとあった冷えた感情にも触れたかった。
ねえおばあちゃん、ジェスはどんな犬だったの。
「ゆきちゃんあんた最初に聞きたいことがそれね?」って笑われそう。
福岡の空が近づく。海の中道のあの変な形の洲は見えないけど、冷たい海の色をしてるんだろいう。飛行機に乗ることが、ついぞ一度もなかったおばあちゃん。
羊のぬいぐるみは、私がずっと東京で可愛がるから、それを見ながら異世界で待っていてよ。私がいつか孫にお年玉をあげすぎちゃうのを見て笑っていてよ。
「私の気持ちわかるやろ?」って。「そうやね」って、また笑うから。
ジェスのおばちゃんの冥福を心から祈る。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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