ゴールデンカムイと卒業と奇跡をこしらえる力について
この面白さはどういうことなんだろう。
そんなことを思いながら一気読みして今2週目に入っているのは、昨年完結した「ゴールデンカムイ」です。
要素の多い作品です。
▪️隠された砂金を探す旅
▪️アイヌの文化、少数民族の生活と近代との摩擦
▪️戦争の間で問われる人間の生き方
▪️囚人の刺青回収における変人奇人との出会い
▪️ヒグマ、狐、狼、うさぎ、鹿、鮭などの狩猟、調理を通した北海道生活の蘊蓄
▪️鶴見中尉、土方歳三、アシリパさん、三様のカリスマ
多様な材料をたとえ手に入れても、それを編み上げることがどれほど難しいことか。
その難題を、一部の隙も無く圧倒的画力を以て31巻(8年)に渡る連載で書き上げたこの作品に、感嘆のため息が東京ドーム一杯分くらい出ました。
前へ前への推進力の凄まじさと、最初から「アシリパさんを尊重して描く」ときっと決めていたであろう、『明治後期の男性はこうなんじゃないかな』という先入観から一線を画す杉元の女性・子供への態度の描写。
背景も小道具も手を抜いて描かれているところがなく、このレベルで週刊連載をと思うと超人の仕業としか思えなくなってきます。
面白さの肝はどこにあるのか・・・・・
そんなことを考えていた3月中旬。
12歳の長女の小学校卒業式が迫っていました。
小学校の卒業式といえば、ちょっと前まで「AKB48の制服風衣装」が占めていた大陸。
そこに「袴」という古豪の軍がドカンと幅寄せしてきて、一気呵成の猛攻で袴統一王朝までもう少しというところ。
なんと女子生徒の6分の5・男子の6分の1が袴姿で卒業式に出席するということになっているらしいのです。
でも我が家の長女のKちゃん。めんどくさかったり、キツかったりすることが苦手。準備が大変なことはきっと嫌がるだろうなと思い、袴は諦めていたのです。
三月半ばまで何の準備もしていませんでした。
そんな時、「コピックを使って絵を描きたい」と言うKちゃんに付き合って仕事場で絵を描いていたら、一枚の自分の絵が目に入りました。
小倉山杯のために作られたクリアファイルです。
ああ、ちはやふるとのコラボで着物屋さんと袴を作ってもらったことがあったなあ・・・。
若い子むけの柄だなあ・・・・。
ああ・・・・・まさに小学校卒業むけの・・・・。
カッ と第3の目が開きーーーー
黙々と絵を描いているKちゃんに説得を試みる自分がいました。
「Kちゃん、卒業式で袴着ない?」
「え?いやだ」
「そこをなんとか」
「いやだ。長時間きついのとかいやだ」
「そこをなんとか」
「いやだ」
「小学校卒業で着るのと、大学卒業で着るのだったらどっちがいい?」
「えええええ」
二択を出されるとどちらかを選ばないといけなくなる、という心理を利用して何とかOKを勝ち取り、すぐさま着物を予約。もう差し迫っているので、そんなに選べる着物もありません。
でもこの千載一遇のチャンスを逃せないと必死に検索しました。私自身も大学の卒業式は袴を避けワンピースで乗り切ったというのに。娘の気持ちもわかるのに。
そして卒業式前日。
快晴の中、きっと桜も満開だろうと1人で歩いていたのです。近所の満開の桜を見て、もしや・・・と思って天気予報サイトを確認したら、今日はお天気でも明日は雨の予報。卒業式は明日なのに。
カッーーー 第3の目が開きました。
「すまない。再びお願い。いますぐ袴を着てくれない?」
「え、なんで。いやだ。卒業式明日じゃん」
「そこをなんとか。桜の下でおばあちゃんと写真を撮ってあげてほしいの」
「いやだ。めんどくさい」
「そこをなんとか」
「いやだ」
「そこをなんとか」
「ううう〜〜〜〜〜〜」
心臓の手術をしたばかりで、足も悪いおばあちゃんは、それでもKちゃんを一番可愛がってくれる身近な存在。
でも小学校の卒業式には出られないのです。晴れ姿を見られないのです。
頼み込み、どうにか袴を着付けて、おばあちゃんと一緒に写真を撮りに行きました。
近所でここ一本だけ満開になった桜の木に、午後四時の夕陽がさして、桜がひとつひとつポップコーンのように弾けます。
暖かい春の日に、手術を終え元気になったおばあちゃんと写真が撮れてよかった。今日が晴れて、桜が満開で、夕方にちゃんと時間があって、youtubeを見ながら何とか袴を着付けできる自分でよかった。
次の日はやっぱり朝から雨。
「2度もめんどくさいことしたくない」と本番での袴を拒否するKちゃん。その気持ちもわかるから、仕方ないかな・・・と引き下がり、袴を片付けようとしていたら「シャツのボタンがめんどくさいから、やっぱり袴着る」と言い出す展開。
卒業式に出かける時、おばあちゃんに「行ってくるね」と声をかけるKちゃん。
根っこの方でちゃんと優しい女の子に育ってくれてよかった。
ゴールデンカムイの素晴らしいところはたくさんあるけれど、一番は「奇跡をこしらえる腕力」なのではないかと思うのです。
その頻度がものすごい。
魅力的なキャラクターと、地理的文化的要素を駆使して4ページに一度奇跡を起こしています。
来ないだろうと油断している瞬間にヒグマが来るし、
もうダメだと思った瞬間にオオカミが助けに来るし、
捕まえたと思った白石は次の瞬間逃げてるし、
口から手が出るほど欲しい銃弾が白石の口の中から出てくるし、
杉元はかわいいシマエナガをまさかまさか食べちゃうし、
その用意された「まさか」に右に左に引っ張られ、予定調和と真逆の雪原の坂道をどこまでも走っていくような物語。
「まさか」は自然には作れません。
この瞬間を最大限に面白くしたい、という思いを張り巡らせないと人を驚かせることはできません。
その驚きの頻度があまりに多くて、物語の終わりにとてもつもないロスを感じるほど。
また驚きたい。また奇跡を見たい。死んじゃうかもと思いながらあの雪原で心配したい。
卓越した物語では奇跡は見せてもらうものだけど、自分の人生の奇跡は自分でこしらえるしかありません。
晴れの日にできる最大限のことを探して、
あの人が喜ぶ一番大きな働きを見つけて、
まだ何かできるかもとインターネットの海を調べることを諦めないで、
見えないところで奮闘し、達成できた少しのことを「奇跡みたい」と心の中で小さく思うこと。
それが人生の醍醐味なのかもしれないと思うのです。
3月の土壇場で唯一レンタルすることができたのが【ちはやふる x JAPANSTYLE】のもので、小倉山杯のために描いた着物と同じだったことも、私にとって小さな奇跡でした。
Kちゃんありがとう。卒業おめでとう。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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