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ちゃん付けは友達寿命を伸ばし、私の「個」を取り戻す


発端はというと、単にうらやましかっただけだった。

同じくらいの付き合いのママ友さん同士が、いつの間にか「ももちゃんこんにちは」「すみれちゃん今日も暑いね」と呼び合っていたのである。(仮名)

名前呼び。ちゃん付けで。
なんで。どうして。いつの間にそんな仲に。
私も同じように6年ほどの付き合のはず。なのに私はいまだに名前どころか苗字呼び。だってママ友だから。

「ママ友」という言葉が生まれてどのくらい経つのだろう。
大人になって出会う「子持ち」という状況が引き合わせた人間関係は、「友」ではなく「ママ友」と言うようだ。

それはまるで期間限定の契約のように、職場の人間関係のように、「友達じゃないよ。いまだけ。有益な情報と共感を持ち寄って、子育てライフのセーフティネットとして大事にしようね」というメッセージを内包する。

そんなふうなメッセージを持つ薄い卵色のフィルムが「ママ」と「友」の言葉をくるんと結む。2個セットで売られる果実。

それを外さないように、踏み越えないようにするのがスマートな現代の親・・・・なのだろうか?なのだろうな?
だって誰もそれを破ろうとしないもん。

そう思っていた。

でも名前に「ちゃん付け」で呼び合うお二人は、なんというかママ友の範疇を超えて親しそうであり、それはどこか若草物語や赤毛のアンの手触りで、私の心を締め付けた。

そう、ママであっても「自分」であることを大事にする、「自分の友」を大事にする、そんなふうな、どこかで手放さざるを得なかった「個」を取り戻している空気。

何それうらやましい。

私の中で「私もちゃんづけで呼んでもいいかな・・・?」と口に出すための練習が始まった。

私は生まれてから16歳くらいまで、自分から人に話しかけることが一切できなかった。
とことん受け身。なんでも呼ばれるの待ち。教室のカメの方が友達がいたと思う。
一部の心の広い友達が構ってくれたから、カメじゃなくて人間扱いしてもらえただけで、本質的にはほぼカメ以下だ。

そんな私も大人になった。年を重ね、漫画家になり、親にもなり、街で知り合いを見かけたら声をかけられるようになったし、困ってる旅行者には「何かお手伝いすることありますか」と自分から言えるようになった。

でも。でも。

「ちゃん付けで名前を呼んでもいい・・・?」

これは。

これは、愛の告白じゃない?

好きですって、これからもっと親しい友達としてよろしくお願いしたいですって、心を差し出すようなものじゃない?

できるの?
できるかどうか以前に、それは一歩間違えば距離感バグった人間の起こすハラスメントなんじゃない?
だってこれ「いやです」って言えない類の申し出なのだから。

そんな逡巡を繰り返す1ヶ月。

千載一遇のチャンスがやってきた。
地域のお祭りで、子供もママ友さんたちもたくさん集まる数時間。

わちゃわちゃした人混みの中、子供たちは前後不覚のハイテンションで友達を見つけては大はしゃぎでスーパーボールを掬っている。
スーパーボールほど親が苦笑いするおもちゃはない。四方八方に飛んでいく飛躍力は扱いにくことこの上ないのに、子供はどんぐり&スーパーボールこそ最上の通貨だと思い込み、「多くを持つ者が世界の王だ」くらいの勢いで集めたがる。
子供たちの世界通貨獲得合戦を見守りながら、今だ・・・今だ・・・今なんじゃないか・・・とママ友すみれさんとの距離を詰める自分。

目が泳ぐ。不審極まりない。

「楽しそうですね」「ね〜。がんばってますね」「そうですね」

ああもう、どんな流れでも名前の話になどならない。呼び方の話になどならない。告白はいつも奇異なものなのだ。そこに流れる空気を読んでいては変われない。告白は、空気を切って行われるのだ。

「あの」
出会った時からなんて美しいんだろうと思い続けたすみれさんの無防備な瞳が私を見る。
私はどんな姿をしているのだろうか。いつも通りどこか間の抜けた格好をしているのだろう。マスカラをしてくれば良かった。ピアスもしてくれば良かった。背伸びするだけ愚かになる等身大だけがふさわしいママ友の世界。そこで私は一体何をしようというのだろう。

「あの・・・今更なんだけど・・・・私もすみれちゃんって名前で呼んでもいいですか?」
「えっ?」
「あの、、、田中さん(仮名)と名前で呼び合っているのを見て、いいなあって思ったの・・・」
「え・・・・っ」

こんな、こんな胃の痛くなる告白はいつぶりなのだろう??
子供たちと親たちの八重九重に折り重なる喧騒の中で、私は確かに心を差し出した。

見逃してはいけないと思いながら。

「No」と言いにくいこの申し出に、どんな眼差しでどんな声色で答えを返すのか。それをしっかり見極めなければならない。その中に困惑や迷惑の色が見えたら、私はしっかりをそれを感じ取らなければならない。
炭鉱のカナリアのように。

えっ・・・うれしい。いいよ〜〜〜もちろん!」

カナリアは感じ取った。
若草物語の扉を私も開けられた感触がそこにあった。

そう、「すみれちゃん」と全ての人に呼ばれていた幼い頃に戻ったような顔をして、彼女は心を受け取ってくれた。

あなたとこれからも付き合いを続けたい。ママではなく「すみれちゃん」であるあなたに用がある。そんな心を。

やったあーーーーー!

ふかふかのお布団に包まれたような気持ちになった私は、もう1人のママ友さんにも大層もじもじしながら同じお願いを差し出した。

笑顔が人懐こくて、気さくでユーモアもあって明るい田中さん。同じようにびっくりしつつも笑顔で「うれしい。私も名前で呼ぶね!」と言ってくれた。


お二人に同じお願いをして確信する。

「ちゃん付けで呼んでもいい?」

これは、人のとてもやわらかいところに触れる申し出だ。
小さな恋の告白をされた女の子に戻ったような顔をお二人ともがしていた。それはママではなかった。

ママ、パパ、先生、医者、店員さん、駅員さん、お巡りさん、映画監督、漫画家、係長、デザイナー、そんな肩書きを得た時から「その立場っぽい自分」を巧みに実装し、それっぽい言動を心がけるのが大人だと思っていた。

「ママでない自分」「漫画家でない自分」を遠く遠くに置いてきて、もうその取り戻し方もわからない。
わからなかったのだ。わかってなかったのだ。

でも「私もゆきちゃんって呼ぶね」と言ってもらった時に、確かにゆきちゃんでしかない自分が顔を出した。
人に愛されたい、大事にされたい、どうでもいいことで笑い合って、そして人を愛したいと願う自分が。

そう言えば、「ちゃん付けで呼び合うことで関係寿命が伸びる」と聞いたことがあり、長く付き合えるおまじないのように「ちゃん付けで呼ぼうね」と昔約束した友達がいた。

そう約束した子たちは、しばらく会えなくてもやはりどこか特別な友達だし、心に思うときは「あの人」ではなく「あの子」と浮かぶ。
友達の席にきちんと座っている。
このおまじないは副作用のない良薬なのだ。

ママ友さん2人の他に、12年の付き合いになる「この人と友達でいられなかったお仕舞いだ」と思っているママ友さんにもがんばってお願いをしてみることにした。
ママ友関係のハブ空港と心の中で思っている彼女は、誰とでもものすごく仲良くなるけれど、私が5歳年上なのもあって「さん付け」が定着していた。

そこを打破するのだ。
こんなに素敵な人と離れては、私の人生の大きな損失だ。
その時の呟きがこれである。

先日したこの呟きにたくさんの反応をもらった。

その多くは「自分も『ちゃん付け』でいこう。みんなも呼んで」というような「ちゃん付け」のパワーを前向きな魔法として受け取っているものだった。
みんなが友達を大事にしたいと思ってることがわかって、破格にきゅんとした。
なにそれ会ったことないけどちゃん付けで呼んじゃうよ?

子供っぽいと思う人もいるかもしれない。
でも、人は親になることも偉い人になることもできるけど、そこから「ちゃん付けされていたころの自分」に戻ることは、自分一人では決してできないのだ。

ちゃん付け」で呼び合うと友達関係の寿命が伸びる。

そして、「個」である自分にもう一度出会える。


あなたと友達でいたいと思うとき、いっせーのせで掛け合う若草色の魔法なのである。

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