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「子供が今好きになったものがある。それは俺らにはアドバンテージなんだよ」
長女のKちゃんがおばあちゃんの家のアップライトのピアノを弾いていました。
我が家の子供達は誰もピアノを習った経験がなく、「せっかくあるのに誰も弾いてくれないわ」とおばあちゃんが寂しそうに言っていたピアノ。その蓋が開かれて、これまで興味を示さなかった10歳のKちゃんが何かを弾き始めている・・・。
右手人差し指だけで、一生懸命スマホを見ながら、出だしの旋律を追おうとする背中は、明らかに「話しかけないで」と言っていました。
「これを弾けるようになりたいの」
そのメロディを私は知らず、曲名を聞いて調べてみました。「弾いてみた」「歌ってみた」はたくさん出てくるけど、どの人が大元なのかもわからない、私の知らないところで人気の曲でした。
その曲を作ったのが誰で、歌っているのは人間なのかボカロなのかもよくわからないまま、「この声が好きだな」というバージョンを聴き始めました。
ピアノで弾けるようになりたい、と思うほど娘が好きになった曲。この曲を「へー、わからないけどそうなのね」と流してしまったら、娘の心に反響する感覚を同じ言語で交換することはもう無理になるだろうと感じたのです。
「ヤバい。最近体力が子供に追いつけなくて」
「ヤバい。最近言葉がすらすらと出てこなくて」
ランチ会で『ママのヤバイあるある』を意見交換した時のことを思い出すまでもなく、子供がティーンに近づいてくる家のパパママはたいていヤバイんです。
「あらゆる点で子供に抜かれそう」というヤバさ。
ヤバい理由が私にはよくわかります。
言語を解さず運動能力もほぼ亀だった0歳児の相手をしていると、こちらの運動能力もそのレベルに落ちます。ゆっくりしか歩くことを許されず、元国体選手であったとしてもスポーツをちゃんと楽しむことは許されぬ贅沢として蜃気楼の彼方へ。
体力は使うのに運動能力は落ちる365日×数年。
「はいアンパンマン見ようね〜」「これあぶないよ〜」「あ〜痛かったね〜よしよし〜」といったような幼い言語運びで何年も過ごすことを強いられ、流行りの音楽フェスにもライブにも行けず本をしっかり読む時間もなく映画も見れず見られても吹き替えの子供向け作品。文化的にも孤島暮らしで最先端はEテレになり、大人と会話をする論理構造は失われ語彙力もなくなります。
ガッと下げられた文化的&体力的反射神経で何年か過ごしているうちに、スイッチの切り替え方も忘れ果てるみごとな中年に。
そんな親を嘲笑うかのように、子供は新OS搭載の頭と身体と最新デバイスとなんでも吸収するスポンジを持って世界の海に飛び込んでいきます。
気がついたら、新しい本、漫画、音楽、ゲーム、スポーツ、それらをたっぷりと友達と共有して、もう背中も見えない。追いつけない。
この間まで床に転がってジタバタ匍匐前進してるだけの生き物だったのに。
「親とは音楽の話はできない」
「親とはテレビゲームはできない」
「親とは漫画の話もできない」
自分も両親にそう思っていました。がっかりしているというよりは、「親はそういう生き物」なのだと。「このゲームこんなに面白のに、洗濯物畳む方が大事なんだー」と思っていました。
大事に育ててもらったことは重々感じていても、親と文化を共有するということは当然のことではなかったのです。親はもう、稼いで家事して生きていくというゲームの戦士としていっぱいいっぱいだったんです。
「もう全然ぜんわからないなあ、最近の歌って」
久しぶりに友人数名が集まった夫の誕生会で、友人の男性が言います。
「子供達が聞いてる曲もわかんないし、漫画もアニメもわかんない」
スキーやカラオケや漫画が大好きだった友人です。
好奇心旺盛で新しい楽器を今でも開拓するタイプの彼が言います。
あんなにサブカルチャーが好きだったのに・・・・。
そう思いつつ、その気持ちもとてもよくわかる、とも感じました。私たちのスポンジはもう、これまでの人生で触れてきた好きな物でいっぱいで、これ以上なかなか「好き」も増えないし、新しいものを新しいというだけで吸収するほどのパワーがもうないんです。
たいていのパパママが、「生きるために頑張る」を最終ラインにして、それ以上を諦めてしまう。それを誰が責められましょうか。
***
しかし。
誕生日プレゼントに山のようにアサヒスーパードライをもらったうちの夫が、缶のまま一口飲んで笑って言います。
「わかんない、で止まったらだめなんだよ」
えっ
言われた友達が面食らいます。
「子供が今好きになったものがある。それは俺らにはアドバンテージなんだよ」
夫はいろんな家庭のいろんな年齢のお子さんの勉強を見てあげていて、社会や地理、理科の教科書的変化にキャッチアップすることが求められる立場。
その必要性を超えて、もともと好きだった音楽も手放すことなく最新の流行りの曲も聴き込み、毎日一人で「ボカロしか歌えないんじゃないの」という難曲を、上手いかどうかは別にして歌ってます。
漫画も必死で週刊少年ジャンプ、少年マガジン、少年サンデーを始めに幅広く読んでいて、その努力は賞賛に値すると思うほど。
なので言葉に体重が乗ります。
「教えてもらえよ。一緒に聞けよ。読めよ。子供がいなかったらもう触れるチャンスのない新しいものなんだよ」
「興味ないアートとかやったことないスポーツとかならしょうがないけど、これまで好きだったろ?音楽も漫画も」
***
子供がいることの負担が大きく、職業的にも文化的にも「最前線から脱落した」と感じられることがあります。でも、そこを逆にアドバンテージだと表現した言葉にハッとしました。
人生は一本の道のように前に前に進みます。これまで好きなものをかき集めて、腕に抱えきれないものを取りこぼしながら、それでも進むしかなくて、歳を取ったら友達が減っていくように、好きな俳優さんが亡くなってしまうように、愛したものを減らしながら生きていくんだろうと思っていました。
そうじゃない。そうじゃない生き方がある。
だれかの「好き」に助けてもらう生き方がある。
だれかの「好き」に引っ張られて、前にしか進まないと思っていた道をグイッと引き返すことができる。子供たちの見ている世界を見にいくことだってできる。
一瞬だけ、部分だけかもしれなくても。
好きな人の好きなものを「わからないなあ」と言わず、「わからないから教えて」と言えたら、どれだけまた抱え直せるでしょう。新しい宝物を抱けるでしょう。
生きていくので精一杯、育てていくので精一杯と思いつつも、それでも背骨と胃の間に置かなければならない言葉があります。
「教えてもらえよ。一緒に聞けよ。読めよ。子供がいなかったらもう触れるチャンスのない新しいものなんだよ」
***
新しいおもしろいものに、同じように目を輝かせることができるなら最高だ、と思いつつ、「天ノ弱」のリリースは2014年!!
どんだけ文化的に遅れていたのかとゾッします。ファイオー。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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