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正義の味方

 私は、歩くのが好きです。
 半径10キロ以内であれば、徒歩圏内です(ただし時間の余裕のある時のみ)なるべく頻繁に、1日につき5~10キロ歩くようにしています。
 私の住む町は海沿いで、日が暮れれば向こう岸の、色とりどりの豆電球の電飾のように見える様々な明かりが、実に鮮やかです。海に流れ込む大きな川の向こう岸にはマンションがたくさんあり、昼間は青空の下で洗濯物や布団らしきものが翻り、夜になれば、たくさんの明かりがともります。いくつものささやかな生活、それぞれの寛ぎや愛情がちりばめられているのを目の当たりにするようで、自分の住む町が、とても愛おしくなります。

 さて、今日も歩きました。自宅まで2キロほどの距離に来ています。
 明るい時刻に歩き始めたのですが、秋の夕陽はつるべ落としです。既に薄暗くなり始め、車道はライトを点灯させた車ばかりが走っています。狭い歩道も、家路を急ぐ人が、三々五々歩いています。

 私の前方から、こちらに向かって一人で歩いてくる男子小学生が見えます。どうやらランドセルを背負っているようなので小学生と判断しましたが、小学生にしては、少々貫禄があるように思えます。何かスポーツでもやっているのかもしれないな、と思いました。してみると、学校帰りの時刻にしては遅めですので、放課後の部活動か、あるいは習い事の帰り道でしょうか。このあたりの小学校が部活動を行っているのかどうか知りませんが。

 彼とすれ違う時、私は少しよけて道を譲ろうしましたが、やや早く、彼が進路をわずかに変え、私の進行方向を確保してくれました。
 その時、うわあうわあうわあ、という悲鳴のごとき響きとともに、キキーッという金属をこすり合わせるような音がしました。
 彼の背後で、古い自転車が急ブレーキをかけたのです。彼は、即座に足を止めて振り返ります。
「急に動くから!!」
 彼に人差し指を突き付け、怒鳴りつけている自転車の主は、前かごに荷物をたくさん積んだ、年配の御婦人です。夕食の材料を少しでも安く調達すべく、遠方の格安食料品店へでも遠征していたのでしょうか。鼻から下は洗いざらし感漂う布マスクで隠れていますが、露出したおでこから目元にかけての表情、及び伴う肌の感じからして、確実に還暦は超えていそうです。黒々としたおかっぱの髪を両サイドでゴムで結わえているのが、まるで昔の子供のようで、少々違和感と言えば違和感です。
 ちょうど私とすれ違うところで、道を譲りあおうとしてくれた小学生の彼が怒鳴りつけらるのを見ていられず、私は彼と御婦人の間に入ろうとしました。が、次の彼の言葉で固まってしまいました。

「お婆さん、あなたのしていることは道路交通法違反です」

 おおお!?
 私は目をまるくし、息をのんでしまいました。
 なんだか予想外の展開です。

「自転車は軽車両ですから、歩道ではなく本来車道を走るものです。やむを得ず歩道を走る場合は車道側を徐行しつつ通行しなければなりません。歩道は歩行者優先です」

 おお、なんと理路整然としていることか。
 どこかに書いてある文章を、そのまま引っ張ってきたかのような。
 まだ声変わりしていないように思われるのが違和感なほど、大人びた話し方です。

「お婆さんには、僕が急に動いたように見えたようですけど、向こうから歩いてきたこのお姉さんと進路を譲り合うためにお互いによけたので、急に動いたわけではありません。十分予測できる動きだと思います。歩道は基本的に歩行者優先だし、僕のせいにするのはおかしいと思います。」

 お見事。
 まったくもって、おっしゃる通りなのですが。

 ハラハラしていると、果たして、御婦人の応戦です。

「あのねえ、自転車普通に歩道走ってるでしょう?」

 うーーーーーん。

 若干口調は優し気になりましたが、残念なことに、この小学生の見事な説明に対する回答としては、あまり優秀とは言えません。果たして、小学生の見事な反論が速やかに展開されました。

「いま言ったと思いますけど、歩道は歩行者優先です。
例えば、車が来ないのを確認して赤信号を渡る人もいると思いますけど、この例でいえばこの場合、車が来ないか確認しないで赤信号を渡って、普通に走って来た車に文句をつけるようなものだと思いますけど、これでぶつかったら、」

 御婦人は、ふんっ!と不服気に鼻を鳴らし、別の方向へ頭を向けて自転車を急発進させ、私たちを置き去ろうとしましたが、そこへちょうどやってきた別の自転車と、見事に正面衝突しました。

 あーあ。ほら、言わんこっちゃない。いや、言ったのは私じゃないけど。
 と、思った次の瞬間、落ち着き払って、少々そぐわない気のするキッズ携帯で110番している姿が目に入りました。
「もしもし。すぐ来てください。……事故です。自転車事故です。場所は……」

 すげえ。
 私は内心舌を巻きながら、御婦人と、ぶつかった自転車の男子高校生を助け起こそうとしました。小学生の彼も、電話をしながら片手で手伝ってくれます。何と頼もしい小学生でしょう。
 他の歩行者や自転車が、後から後からやって来ましたが、皆、手前の横断歩道から向こう側に渡ったり、適当にガードレールの切れ目から車道に降り、適当に避けて通っていきます。
 幸い、ぶつかった二人に大きな怪我はなさそうで、それぞれの自転車もさしたる損傷はないように思われました。私はこの男子高校生と御婦人に、警察の到着までここにいてくれるように頼みました。
 男子高校生のほうは素直にうなずいてくれましたので、よければ念のため、この間に親御さんに電話をして事情を話してください、ともお願いしました。
 御婦人のほうはと言えば。
「ねえ、お姉さんさあ、ちょっと許してよ。私、いそいでうちに帰って食事の支度をしないといけないのよ」
 小学生相手の時の強気とは打って変わった態度で、私に縋りつくようにして訴え始めました。電話を終えてしっかり見張っている小学生の彼のことは、見向きもしません。
「それは私もですけれど、今ここで許すかどうかとかは、私の決めることではありませんので。場合によっては、この高校生のお兄さんの親御さんと話してもらう必要も発生するでしょうし、こちらの男の子のいうことはまったくもって正論ですし、どのみち通報してくれちゃったので、とりあえず警察を待つしかないかと」
「そんなこと言わないでよ、こんな年寄りにさあ」
「生憎、私がどうこうできるわけでは」
「おばあさん、ちょっとご理解が難しいかもしれませんが、お姉さんの言う通りですので、ひとまず警察の到着を待ってください」
 この真面目くさった言葉を耳にした御婦人の顔を拝見した瞬間、外国映画さながらOh,God,とでも言いたくなりましたが、ありがたいことに、ちょうどそこへ警察がやってきてくれました。

 私たちは、思ったよりもすぐに解放されました。
 通報した彼は、終始極めて大人びた態度で論理的な経緯説明を行い、駆け付けてくれた警官さんたちに絶賛されていました。そりゃそうです。普通なら大人でも、うろたえてしまっておかしくないところです。

 自転車同士の事故は車両事故で、通報し現場検証をしてもらう必要があると知らない人のほうが多そうですし、知識として知っていても、実際に通報する人は少ないと思います。むしろ子供だからこそ、こんなきちんとした対応がとれるのかな、しかし下手な大人よりよほど見事だよな、私こんなふうにできないな、などと、情けないことを思ってしまうのでした。

 一体どんなご両親のもとで、どのように育てられているのでしょう。学校の先生やお友達には、どう思われているのでしょう。どんな大人になってゆくのでしょう。知りたいような、知りたくないような。

 別れ際に彼は「お姉さん、手伝ってくれてありがとうございました」と、私に向かって白い歯を燦然と輝かせ、やけに貫禄のある背を向けて、既に日の暮れ切った道の上に上った巨大な満月に向かうように、颯爽と去って行きました。君はセーラームーンとか月光仮面とかの親戚かなんかか。と、昭和生まれの古い発想で、彼を見送ったのでした。

 帰宅してから、ふと思いました。
 彼の母親よりも年上であろう私のことは「お姉さん」で、かの御婦人のことは容赦なく「おばあさん」。小学生にしては、些か変わった呼び方のように思います。感覚としては、ちょうど、何かに強いこだわりのある中年男性のような……。

 あの子、果たして本当に、本当の小学生だったのでしょうか。

 先日観た「歴史上の人物をAIで再現して日本の政治を執ってもらう」映画が脳裏に浮かびました。我ながら、異次元の話過ぎて自分で笑えました。いくら、大人の組み込んだプログラムの匂いがするかも、なんて思ってしまったからって。

 異次元と言えば「異次元の少子化対策」って、どの辺が異次元なんでしたっけ。


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