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猫が飼いたい

猫が飼いたい。飼いたくてしょうがない。半年前にペット不可のマンションに越したばかりだというのに。

わたしはこれまでの人生をずっと犬好きとして生きてきた。物心がついたときにはすでに祖母の家の雑種犬と遊んでいたせいか、一番好きな動物は犬だと自然に思うようになっていた。ライオンやゾウはもちろん好きだ。それでも「動物」という文字を見ると反射的に犬の姿を想像してしまうし、触れた時間の長さ(2024年現在35歳)なら人に次いで犬が2位、いや、もしかすると1位の可能性だってありえるのでやっぱりわたしにとって犬は特別な存在だということになる。散歩中の犬とすれ違うときには歩くスピードを緩めてじっと目で追う。こちらの視線に気づいた途端に愛想を振りまいてくれる犬がいたり、飼い主が急いでいるか無愛想でなければその犬に触ることができたりするからだ。わたしはチャンスを逃さない。そうやって子どものころから人の犬を触りまくってきたのだ。

たまに思い出す記憶がある。母に連れられてスーパーに行くと入口の外で大きな犬が飼い主を待っていた、というか待たされていた。犬に近づこうとするわたしを置いて母は先に行ってしまったので、残されたわたしはすぐそばにしゃがみこんでその犬を撫でた。そうやってしばらく犬を撫でるのに夢中になっていたせいで後ろから近づいてくるおばさんには気が付かなかった。「僕の犬なの?」いきなり話しかけられたことにびっくりした。というかそれよりも、「よその犬を図々しく撫で回すんじゃないよ」とでも言いたげなおばさんの表情にハッとした。恥ずかしくなったわたしは無言で首を振り、スーパーの中へ走って逃げた。

我が家に犬を迎えたのはわたしが中学生になってからだった。父がなぜその気になったのかはわからないが、ペットショップで見た子犬を飼うことが突然決まった。ミニチュアダックスフンドのれい。眉間に鼻を押し当てて思いっきり匂いを嗅ぐのが好きだった。そのれいが去年17歳でいなくなってしまい、わたしのなかでなんとなく犬との人生が終わった気がした。

猫が飼いたいと思うようになったきっかけはポール・ギャリコの『ジェニィ』という小説だ。わたしはお昼ごはんを食べた後のどうしようもない睡魔に耐えきれず、そんなときは職場の近くにある書店へよく行く。海外文学の棚の、満腹なのに無理して下段を覗いているときに見つけたのがこの本だった。子猫になってしまった少年がジェニィという雌の猫と旅をする物語。猫の目線で描かれた世界に一気にのめりこみ、大変なことだらけなんだろうなーと他人事のように野良猫の生活を想像しながら本を読み進めた。そして、あれ?と気がついたのだった。わたしは野良猫と暮らしたことがある。

10年前にわたしは学芸大学で一人暮らしをしていた。古い木造アパートの102号室。晩ごはんを買いに玄関の外へ出るとどこからか猫の鳴き声がする。探すまでもなかった。目の前の茂みの枝がスカスカになっているところに子猫がいるのがすぐに見えたのだ。わたしはこんなに近くで猫を見るのが初めてだった。もちろん触ったこともない、ただずっと子猫は鳴いている、かわいい、かわいい、かわいい。
ひとまず近所のセブンイレブンで弁当と、そのとき生まれてはじめて猫用の缶詰を買ってみた。レジに立っていた顔見知りの店員に「猫飼った?」と思われたんじゃないかと少しドキドキしながアパートに戻り、お気に入りのアデリアのコーヒーカップに買ってきた餌を入れて茂みの端の方に置いておくことにした。次の朝カップを確認しに行くと餌はきれいになくなっていた。次の日も、またその次の日も。何度か餌やりを続けるうちに子猫が自分のことを害のない人間だと認識してくれたような気がして、どうしよう!野良猫の友達ができた!ととてつもなくピュアな感情が目覚めてしまった。

ある日彼女から動画が送られてきた。外の茂みからうちの玄関に向かって等間隔に並べられた餌を子猫が順番に食べていく様子が映っていた。誘惑に負けてしまったのかそれとも人間に心を許したのか、結局子猫は玄関の中に入って餌を食べていた。すべて食べ終えると少し体をこわばらせて外へ出ていってしまったが、彼女の作戦がうまくいったようで以前より猫との距離が縮まっているのが嬉しかった。
その日を堺に子猫は急速にわたしたちに慣れていった。夜にしか聞こえなった鳴き声が日中も聞こえてくるようになり、姿を見せる時間も少しずつ増えた。わたしの帰宅に合わせて茂みからひょいと跳び出て来るようになった頃にはもう立派な猫と言えるサイズ感に成長していた。さすがに大家さんに見つかるとまずいのでは?と悩みはしたがもう手遅れ。わたしの情はこの猫に移りきっていたため見捨てることはできなかった。人目につかないほうがいいだろうと判断し、玄関とは反対側にあるベランダに餌を移動してその場をしのぐことにした。

その猫を吉(キチ)と呼んだ。ほどほどに良いことが起きますようにという願いで彼女が付けた名前だ。吉はベランダの餌を食べにどこからともなくやって来る。朝カーテンを開けると目の前に鎮座していることもあれば少し離れた塀の上で日向ぼっこをしていることもある。吉がどこでスタンバイしているのか確認するのが毎朝の楽しみになっていた。餌を嗅ぎつけた他の野良猫に牙をひん剥いて威嚇する姿を何度か見かけたし、ベランダに並べたサボテンに体をスリスリするくらいタフな猫でもあったから直接撫でさせてもらうまでは苦労した。吉の視界に指先や手の甲や腕を入れると瞬く間に長い爪に狙われてしまう。傷だらけになりながらそれでもくじけず間合いを詰めていくうちに、いつの間にか体を触らせてくれるようになった。距離をさらに縮めたくて恐る恐るお尻の上を結構強めにトトトトトと叩くと、お尻を高く突き上げて身体全体で「幸せ」を表現しているようだった。ベランダに餌を出し入れする数秒を狙ってヌルヌルッと部屋に入って来てしまったときは少しの間だけ膝の上に吉を乗せることもあった。体をのけぞらせてリラックスしていたと思えば突然すっと起き上がって部屋を出ていってしまう。そんな気分屋なところにやっぱり猫なんだなーと実感させられた。吉によく触るようになってからわたしの肌はひどくかぶれてしまった。仕方ない。いくつかの皮膚科を転々として完治するまでに数年がかかった。

2年住んでそのアパートを出た。引越し当日もいつものようにベランダにやってきた吉を膝に乗せてわたしは号泣してしまった。勝手に餌をあげて自分の都合でいなくなるなんて、吉に申し訳ないし大家さんには後ろめたい気持ちでいっぱいだった。しかし蓋を開けてみると他の部屋の住人も吉に餌をあげていたらしく、退去の立会いをしているとき大家さんに「猫に餌あげてたでしょー」と笑いながら言われたので全てお見通しだったようだ。少し悲しかったけど安心もした。
驚いたことは他にもあった。吉と会えなくなるという実感が湧き始めた引越しの2週間前。鳴き声を聞いてカーテンを開けるとそこには吉と吉そっくりの子猫が3匹いたのだ。自分にこんな感情があったのかと冷静になってしまうくらい感動した。餌を食べに来ない日が続くなーと思っていたけど、その理由がこれだったなんて!もぞもぞ動き回る子猫たちを見つめる目つきは、今までの吉とは違ってどこか神聖さを帯びている気がした。

そのアパートはもう取り壊されている。アデリアのコーヒーカップも引っ越しのときになくなってしまった(当時安い引っ越し業者に頼んだら荷物がいくつか消えた)から、本当にあった出来事なんだろうかと自分でも疑わしくなる。これまでなぜ吉のことを思い出さなかったのかはかわからない。たまたま今が思い出すのにちょうど良いタイミングだったんだろうか。

『ジェニィ』を読んでわたしは猫好きになっていた。そしてもう一度言うがわたしはペット不可のマンションに住んでいる。猫との暮らしはもう少し先の話になってしまいそうだが吉みたいな猫にまた出会えたら嬉しいし、そうじゃない猫も大歓迎だ。まさか自分の人生の目標に「猫を飼うこと」が加わるなんて思ってもみなかった。

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