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日本の意思決定の構造:公/猪瀬直樹

 僕は大企業に勤めています。長く続いている大きな会社なのに、意思決定の拙さには本当にうんざりします。それはコロナに対する東京にも、日本にも相似的な構造として同じにおいを感じるんです。この本に解決のヒントを期待しましたが…ガッツとタフネス、ファクトとロジックが必要だということはわかった。作家性については、トップではない僕にとっては、会社組織への示唆という点ではちょっと遠く感じました。読みが足りないのかもしれないけど。
 自分でも嫌になるような出口のない話になった。覚え書きです。

変わらなかった個、結果としての官僚主権

 すべては紹介されていたこの一言で理解できるのではないでしょうか。

 伊藤博文が憲法をつくるためにヨーロッパを訪れたとき、ウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタインからこう忠告された。
「君らの国では、英国のような議会はまだ無理だ。百家争鳴になって何も決まらない」
「まずは議会の権限を一定の幅で制限して、官僚機構をつくってそこで政策を決めて、議会で承認するような形をとったほうがよい」

つまり、日本には民主主義の土台としての国民が成熟していない、そのため、公はエリート、官僚に預けて意思決定の多くを委任するということ。明治憲法は1889年に発布。

 ここで、公をリードしていくべき作家からも公が失われ、私に回帰してしまったことを氏は嘆いています。作家として語られていますが、これはジャーナリズム全体と捉えていいのだと思います。

 さて、果たしてそれから130年、未だに国民は成熟しなかったということか。まぁそうかもしれません。僕は80年代生まれですが、前に倣えは教わっても、ディベートは少しも触れられずに、義務教育を終了しましたしね。大部分が公を担う国民として未だに成熟できていないのかもしれません。一時的と想定したのかもしれないが官僚主義で仕組みをつくったが、結果、日本人はこれまでにやってきたとおりの、師弟関係、画塾、句会、道場…小さなグループという枠を抜け出せなかった。現代的な社会、日本というレイヤーで考える文脈を獲得できなかった。

企業の意思決定に見る相似的構造

 御前会議、全く見えない意思決定プロセス、検証を阻む記録のなさ、列挙される様々な事象が企業の意思決定にも同じ構造が見えてきます。
 国民=マジョリティが育ってないわけだから、企業における意思決定も同じようにならざるを得ない。少なくとも僕が務めるような大企業においても、日本が育んできた小さなグループで機能する意思決定の仕組みは通用しません。1を100にするカイゼンに関しては現場が賢くプロセスをきっちり作って回していくが、重要な意思決定はトップが密室で行う。不信感は漂うけど、大多数が持つ小さな声は拾い上げられず、なんとなくトップが流した空気にしたがって足取り重く進んでいく。

欧米に倣うことが果たして答えなのかどうか 

 無責任に答えのない雑記ですが…「空気の研究/山本七平」は空気支配によるファクトとロジックの軽視を、その背後にある“臨在感的把握”、つまりその奥に何かがあると想像する力と捉えて論述しました。この本の中にも“空気”というキーワードは度々出てきましたが、メカニズムとしての“臨在感的把握”は必ずしも悪しき面しかないわけではないでしょう。日本人の五感の解像度、路地やトイレにまで花を飾る精神、日常で消費するものの感性の高さ…いろいろな美徳の裏返しだとも思えるわけです。では、これを活かしながら組織経営をやる日本らしい手法があるのかというのが次の問いだと思います。U理論はその筋ではないか。ですが、小さな組織には馴染んでも、果たしてあの手法を大企業全体で実践的に使うのに現実味があるかどうか。現時点では全くピンとこないし、できるにしても、あと何世代、人が入れ替わればいいことか…ですが、ある面でスポット的に流れはあるような気がする。マインドフルネスとか、MBAからMFA(美術学博士)だとか。

 最後。それにしても、折に触れディスられる芥川・太宰。公というテーマにおいて、私“だけ”を材料にしたという点で批判されているわけですが、そしてそれは読んでたらわかるし、第II部の最後に明確に説明していただいているわけですが、それにしても、その論に反して人間性全体を断罪するようなしつこい書きっぷりで、読んでいてこれはどうなん…と。生きた世代の雰囲気もあるのでしょうが、自分が信じた一本の道だけでなく、そうでないものに対してもやわらかく心を開いておける自分でありたいものです。これはU理論に続く道ですね。

 表題画像。これから目を開けるような日本であって欲しいものだ。シャッターは閉じかけているのかもしれないけども。

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