関羽の諡(おくりな)は長いし、別称もすこぶる多い――「呼び方」から考える「漢字」のもつもの
はじめに
関羽、字(あざな)は雲長、といえば三国志における劉備玄徳の義兄弟ですが、中国史上の偉人としては、日本でも屈指の有名人だと思います。
その関羽ですが、本場中国でも後世かなりの性格づけをされています。それは彼の別称に象徴されます。ざっと挙げると、
関公、関帝、関老爺、関王爺、関帝爺、伽藍神、関護法、恩主公、関夫子、関大帝、関聖大帝、協天大帝、関聖帝君、保佑帝君、蓋天古仏、南天主宰
などの呼び方をされていました。商売の神様(横浜中華街にも関帝廟があります)や、武勇の象徴、さらに仏教の加護を象徴するような呼び方があることがわかります。
このように、関羽はその死後も中国の人々にとって重要な存在であったことがうかがえます。
呼び方のあれこれ
さて、その関羽の「呼び方」ですが、さきほど「字(あざな)」というものがありました。これは成人男子などが本名(≒諱、いみな)とは別につける名前でして、例えば高名な「諸葛亮」は諱が亮、字が孔明です。成人した人については、この字で呼ぶのが一般的でした。
漢字を使用してきた人々の間には、「実名敬避」という実名で貴人を呼ぶことを避ける(=避諱)という習慣もありました。とりわけ同時代の皇帝の諱を呼ぶことは重大な禁忌とされ、書物においても皇帝の諱の使用は慎重に避けられてきました。
例えば、漢の建国者および最初の皇帝は劉邦ですが、漢代の書物などでは「邦」字を避け「国」字を使っています。日本語ではどちらも「くに」と訓みますから、意味上は同じでわかりやすいかと思います。
このように、諱を避けるために、代字(代わりの字を使う)や欠字(その字を削る)、欠画(どこかの画数を消して別の字として扱う)などが行われました。さらには、皇帝と同じ名前を持つ者を改名する例もあったといいます。ここからは、名前に「権威性」と「秘匿性」が見出されていたと考えられます。
ちなみに、文人は「号」をつけることもありました。これはペンネームのことで、たとえば有名な蘇軾は、文人としては東坡という号を持ちます。
諡(おくりな)について
ところで、死後に皇帝や功績のあった人物に名前を封じる習慣があり、これを「諡(おくりな)」と呼びます。
例えば、唐代以降の皇帝は「高祖」「太宗」などの諡を持ちます(これは細かく言うと廟号ですが)。
また、皇帝の諡にはそれを送るものの価値観が反映されます。孔子が『書経』を編む際に漏れたものとされる『逸周書・諡法解』によると、諡には、
「美諡」…良いとされる諡。生前の評価が良かった者に送られる。
「平諡」…価値中立的な諡。夭逝した者などにおくられる。
「悪諡」…悪いとされる諡。生前の評価が悪かった者に送られる。
という分類があるとされます。これによると、たとえば武帝の「武」などは「美諡」、哀帝の「哀」などは「平諡」、隋の煬帝の「煬」は「悪諡」として分類されています。
また、例えば諸葛亮には劉禅から「忠武侯」という諡号が送られています。功績のあった家臣や、皇后などにも諡は送られていました。
関羽の諡まとめ
この諡ですが、関羽にはすこぶる多いのです。それは、中国歴代の王朝において、その時々の皇帝が何度も諡を送ったからでした。
大清が中国を統治していた頃、1879年頃に光緒帝が封じたところによると、その長さは漢字で26字にもなります。それが、
忠義神武靈佑仁勇威顯護國保民精誠綏靖翊贊宣德關聖大帝
です(ここでは「繁体字」というおよそ人民共和国以前まで用いられた字体を用いています)。このときは、「宣德」(才徳を宣揚する)の二字が諡として追加されたのですが、その前には「翊贊」(=翼賛。天子を補佐する)が、さらにその前には「綏靖」(すいぜい。安らかにする)が、という風に、ちょうど二字づつ追加されていった結果の26字です。ここまで並ぶと、何かおどろおどろしい感じがします。
このほか、それ以前の明朝や宋朝においても諸々の諡が送られています。例えば、南宋孝宗淳熙14年11月21日(1187年)には「壯繆義勇武安英濟王」、明神宗万暦42年(1614年)には「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊關聖帝君」などです。
このように、大衆からの支持に加え、王朝からも諡を多数受けたことは、関羽の存在の大きさを物語っていると言えます。
なぜ関羽の諡に注目したか
さて、どうして私がこの関羽の諡に注目したかというと、清代の小説集『聊斎志異』の中に「考城隍」というお話があります。その中に、冥府の試験官の一人として「關壯繆」(かんそうびゅう)こと関羽(「壯繆」は蜀漢景耀3年9月に、後皇帝劉禅が送った諡)が登場しますが、私が読んだ本のその部分には、
繆非美諡也。一説繆與穆通。(略)
という馮鎮巒(ふう ちんらん、1760-1830)の評が書かれていたからでした。これは、
「繆」は「美諡」ではない。一説によると「繆」は「穆」と同じである。(略)
といった意味になります。
「繆」字は、さきの『逸周書・諡法解』の「美諡」には確かに分類されておらず、「悪諡」に分類されています。細かい考証を抜きにすると、「びゅう」と読む場合、意味は「謬」と同じで「誤り」というものですから、それほどいい意味ではないかもしれません。
ところが、それと通じる、つまり意味や発音が同じとされる「穆=ぼく」字は「美諡」に分類されているのです。こちらの字であれば意味も「恭しく敬う」といったところで、諡は「壯穆」となり、「美諡」といえる、ということでしょうか。これが「繆=ぼく」説です。
馮氏がわざわざこういった評をつけたのも、蜀漢を建てた劉備の功臣関羽に、その劉備の息子である劉禅の名で、そのような「悪諡」を送ったとすることへの疑問が生じたからなのでしょうか。関羽にも確かに評価の難しい面もあったかもしれませんが、敢てそのような否定的な評価として「悪諡」を送るものかどうか。
とまれ、ある字の読み方ひとつで、ある人物の評価そのものが両極のものとされる、そのような注意を促すマークとして、この馮氏の評が私に迫ってきたのです。
真相はわかりかねますが、この部分に関してはまだまだ議論の歴史があり、丁寧に追っていけばもっとはっきりするのかも知れません。一つの参考として、松浦友久氏によると、「繆=ぼく」は漢代頃は正統な読みとされていたようです。
このように、自分でも少し関羽の諡が気になり、まとめてみたのです。
関羽の諡から考えたこと
私が以上のように関羽の諡を通じて考えたのは、人々が漢字を並べることで、そこに「権威」やなにか「おそれ」的なものを付与しようとする態度、あるいは見出そうとする態度のことでした(日本でも戒名がお金を積むほど権威を付与して長くなる、という慣習がありますが、これもその一種といえるのでしょうか)。
文字というのは、そもそも権力者が自分の権威性や正統性を誇示するために一気に生み出すものだ、とは白川静の主張ですが、そのような漢字の性格を、この関羽の呼び方は特徴的に表しているのではないか、と思いました。
漢字には意味と共に様々な「念」が仮託されます。それが時に人々の創造性を掻き立て、表現を豊かにするとされますが、そればかりとも限りません。
中国の人々が、漢字を通じて関羽に何を見出した/見出したかったのか、そして中国の統治者が何を付与しようとした/付与しようとしたかったのか、それを考える上で、諡の考察は大変有意義なものであるように思えました。
参考
松浦友久2003「「繆氏」の発音の史的変化と日本漢字音―「入声・去声」の関係に即して」『松浦友久著作選Ⅰ』研文出版.
もと『村山吉廣教授古稀記念中國古典學論集』(汲古書院、2000年)所収.
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