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【ショートショート】時間保険(3,330字)

「時間保険、どうですか?」
 その言葉が田中雄太の耳に飛び込んできたのは、昼休みのカフェテリアでのことだった。
 最近できたばかりのこのカフェテリアは、広々とした室内に大きな噴水と大木を備えた、たいへんリラックスできる場所だった。大木は吹き抜けになっていて三階まで届いており、そこから淡い木漏れ日が差し込んでいた。
 そんな場所で、三十年の人生の日課となっている日記帳にいそいそとペンをはしらせていた。その作業をすることで、気だるい午後の仕事を一瞬忘れていたが、急に声をかけられたので少し鬱陶しく感じた。
 すっかりと冷めたコーヒーを啜って、黒のスーツをビシッと着たビジネスマンを見た。
「時間保険って、聞いたことないな。新手の詐欺か?」
 雄太は独り言のように呟いた。
 どうやら新しい保険商品らしかった。「失われた時間を取り戻せる」という奇妙なコンセプトをもった保険だという。交通事故や病気で人生の一部を無駄にしてしまったとき、あるいは仕事や人間関係のストレスで「時間が無駄になった」と感じたときに、その無駄になった時間を「補償」してくれるらしい。
「そんなバカな。時間を戻すなんてありえないだろう」
 雄太は一笑に付そうとしたが、どこか興味をそそられてしまった。
 そのビジネスマンは「タイムセーバー社」という会社の社員だと名乗った。
「本当にこんな保険があるのか?」
「『時間を失った瞬間、あなたに再びチャンスを』がキャッチフレーズです。保険料は現時点での全資産。たったそれだけで、一度だけ過去のどこか、任意の地点へ戻ることができます」
「なんだこれ、まるでSF映画みたいじゃないか」
「ご安心ください。私たちの技術は、時間の流れに働きかける方法を長年研究した結果、生み出されたものです。人生の時間軸を微調整し、必要な時点に戻すことが可能です。加えて、やり直した時間の記憶は、あなた以外の人には残りません。ですので、周囲に影響を与えず、まさに『保険』として機能します」
「本当に? なんで俺なんかに声をかけたんだ?」
 男は静かに頷いた。
「あなたは日記をつけていますね。この技術に必要なのは、時間を戻す具体的な時間の提示です。そこで『記憶の蓄積』、つまり日記が必要なのです。だからあなたに声をかけました。そして、契約者自身がその時間を無駄にしたと感じたときにのみ、使用が許されます。あと、もっていける記憶は一つのみです。たとえば、過去の公営ギャンブルの結果をもっていきたいなら、その結果という記憶しかもっていけません」
「へー、ギャンブルで金儲けしても問題ないのか。わかったぞ。『契約者自身がその時間を無駄にしたと感じたときにのみ』なんて条件に難癖つけて、時間を巻き戻させないんだろ」
「『保険』とは元来そういうものなのです。しかも、これは自身で判断していただいて結構なんですよ。そして、わが社の技術は本当です」
 そういって、仰々しく紙紐で留められた大量の紙の束を机の上に置き、「この契約関連書類が水で濡れないように」と言って、その男は立ち上がった。
 立ち上がったその男に、声をかけようとしたその瞬間、三階から大きな音が響いた。なにやら爆発したらしく、火炎が大木を包んだ。
 あっけにとられた雄太は吹き抜けになっている三階を見つめながら、自分も避難しなくてはと思った。程なくしてスプリンクラーが作動した。そのとき、男の「水で濡れないように」という言葉を思い出し、紙の束を素早くビジネスバックに放り込んで、その場を後にした。
「このことを知っていた?」
 外に出て火災の様子を眺めながら、そんなことを思っていた。

 数日後、自宅にいる雄太のもとに「時間保険」の担当者が訪れた。黒いスーツに身を包んだ無表情な男は、手際よく契約書を確認して微笑んだ。
 雄太はしばらく考えたが、最終的に契約することに決めた。失った時間を取り戻せるなら、それは価値があると思ったのだ。
「本当に来た。いや『本物』ってことか」
 雄太は午前四時を指す時計を眺めながら言った。
 契約書に同封された一枚の紙切れをまじまじと見ながら、指を差す。そこには「保険を契約する気になったらいつでもお電話ください。文字どおり『いつでも』あなたのもとへおうかがいします」と書かれていた。
 雄太は無愛想に紙袋を出した。
「この紙袋にあるのは、俺の全資産の二千万。生命保険、土地、車、全部売った金の全部だ。あとこれは毎日つけている日記。文字どおり、全資産だ」
「結構です」
 男はゆっくりと紙袋見つめた。
「ただし、この金を渡す前に一つ条件がある。それはこの保険をいますぐ使わせほしいってことだ。わかってる。保険というものは、契約後から効力を発揮するってことを」
 男の目が厳しく光る。
「ただなんとか、いますぐ時間を巻き戻してくれ。十年前の四月十五日。大学三年生まで」
 雄太は訥々と語り始める。
 大学卒業後、少しでもお金を稼げるように必死に毎日を過ごし、努力したそうだ。それは並大抵の努力ではなく、ヘッドハンティングによる転職を繰り返し、のしあがっていった。それは大学三年生のころに付き合い始めた恋人の存在が大きかった。雄太が通う大学の隣の駅にある音大でピアニストをしていた彼女。将来を誓い合った雄太だったが、アーティストの卵である彼女との将来のために、自分が頑張らなければならなかった。
 そして、数日前。そろそろ、と婚約の話を切り出したあたりで、突然、別れを切り出された。どうやらIT関連企業の社長との間に子どもができたようだ。驚いたのは愛人関係を大学卒業のころから始めていたこと。
「俺との交際期間、ほぼ丸ごと愛人生活をしていたってわけさ。自分が情けないと思うのと同時に、ああ無駄だったなって思って」
 目を赤く腫らした目でうつろに男を見据える。
「いいでしょう、特別です。数日前、あのカフェテリアで契約したことにします。時間を戻すのは簡単。この錠剤を飲めばそれで終わりです。一つだけ記憶をもっていけるのですが、何をもっていきますか?」
「ありがとう。彼女との記憶をもっていくよ。こんな思いを二度としないようにね。そして、彼女と出会った十年前の四月十五日に、彼女と会わないことにするよ」
 そう言うと、雄太は数分間、祈るように錠剤を見つめ、意を決して錠剤を飲み込んだ。そして、その場に座り込み、宙を見つめ、数分後に目を閉じて眠りに落ちた。

 車内で、男は外を眺めていた。
「人は弱っているなかでは判断力が鈍るんですね。薬剤は睡眠薬で、現金を奪って逃げられてしまう、なんてことを考えられないのでしょうか」
 運転手の女は助手席に座る男に言った。
「君はおしゃべりだな。頼むから事故なんて起こさないでくれよ」
 後部座席で深い眠りに落ちている雄太を一瞥して、男は言った。
「これから行く海岸の倉庫にあるタイムマシンで田中雄太氏を過去に飛ばす。それで今日の仕事は終わり。社長もいらっしゃるぞ」
「社長がですか。なんでまた。いつもはいらっしゃらないでしょう」
「この『田中雄太氏』がタイムマシンの開発者、そして社長自身だからだ。社長が一千五百万六千三百六回目の人生でタイムマシンのベースとなるアイデアを生み出し、それから二万九千二回目後の人生でアイデアを実現させた。……今回は六十三万十五回目の人生だからだいぶ先だな」
 「俺は一回目から彼の人生のサポートをしている」と男は付け足した。
「そんな、あんな仙人のような達観した御仁が。女性関係で悩んだ人生もあったなんて」
 そう女が言ったとき、「あれ会ったことないのになぜ社長のことを」と動揺した。
「君は十万五千七百十六回目の人生からのサポートだ。そろそろ記憶に齟齬が生まれてきたな。しかし巧いよな。自分の記憶としての『日記』と開発資金としての『全資産』をその場で回収してしまうんだから」
「社長は『まだまだ開発の途上だ』とおっしゃっていますよね。あれ。また私、会ったことないのに記憶に残っている」
「君は何度も社長からその言葉を言われている。これから六十三万十五回目を聞けるぞ」
 男はそう言って、再び「頼むから事故なんて起こさないでくれよ」と言った。 
(了)

©Yuya WAKUNO, 2025

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