もうひとつの闘病記
Noteを開設しました。入院中暇だからという理由(死の淵に立たされている人間に暇なんて元々ないのですが)で開設したわけではなく、ちゃんと自分の中で確固たる信念を持った上で、それを実行するにはnoteしかないなと思い、開設しました。
「もうひとつの闘病記」を書くためです。
この「もうひとつの闘病記」を書かなければならなかった理由、それが他のブログと何が違うのか、そしてなぜ開設済みのはてなブログではなくこのnoteでないといけなかったのか、ということについて、まずは書いていこうと思います。
僕のブログは、現時点で以下の2つがあります。
「ヨシナシゴトの捌け口」
これは、生きることと死ぬことについて考えた乱文を、とりとめもなく列挙したブログです。ただ、それでも毎回ひとつの作品として読み切ることができるように、起承転結だけは心がけています。
「或る闘病記」
こちらは、純粋な闘病記です。ヨシナシゴトの捌け口とバランスが取れるように、なるべく口語体でユーモアも交えながら書くことを心がけています。最近更新していませんが、現在執筆中で、間もなく更新予定です。
この2つがあるのに、どうして3つ目のブログを作る必要があるのか、と思われる方も多いと思います。僕自身も、ブログの数を増やしてそれぞれの棲み分けを図ったところで、読む方に混乱を与えかねないかもしれないと思っていました。そのため、ずっとnoteには興味があったのですが、開設してきませんでした(実際、最初に挙げた2つのブログが全く同じものだと思っている友人は結構な数いました)。
ただ、フォロワーの方が増えていく中で、応援してくれる方々の輪が広がって嬉しい反面、訳のわからない考え方をする人間に遭遇することも増えました。
こういうやつです。
この程度で傷ついたりはしないんです(この程度で傷ついていたら余命宣告なんて乗り越えられません)が、普通に気持ち悪いですよね。でもいるんです、こういう人間が、世の中には一定数。(これ以外にも、似たようなDMを送ってくる方はいましたし、民間療法を無理矢理勧めてくる方も数え切れないくらいいましたが、表からは見えないDMの数々に関しては名誉のために晒しません)
一人の人間が死ぬのをただただ興味本位で見届けてやろうという意味でフォローしている人も2万人近いフォロワーの方々の中には必ずいますし、ましてやtweetのインプレッション(閲覧数)が毎回最低でも数十、多いときで数百万ある中で、例えば無作為にこの国の人間を百万人抽出した時、そういう考え方を持つ気持ち悪い人というのは、ほんのひと握り(であればいいのですが)の割合であったとしても人数に換算すればかなり多く、めちゃくちゃ気持ち悪いなということに気づいて、気軽に文章が書けなくなってしまいました。僕が一生懸命、身を削って書いた文章を、こういう人間に、鼻をほじりながら読まれたくはないのです。
僕は、僕のことを心の底から応援してくださる文章を書きたい。生きた証を残したい。でもこんなクソみたいな人間には絶対に覗いてほしくない。これは本当に相反する問題で、僕はこれを解決するために、もう自分の知り合いしか知らないアカウントで発信しようかなと思いました。
でも、このtwitterでしか繋がっていない方々がたくさんいるのも事実で、僕が彼ら彼女らにこれまで助けてきていただいたという状況も鑑みれば、その人たちの存在を無視することはできませんでした。
「本当に僕を応援してくれる人にだけ届ける」ーその方法は、多分ひとつしかないなと思いました。(超低価格設定での)有料noteです。こうすれば、さっき話したクソみたいな人間のことを排除できるんじゃないか、と。かなり入れ込んだ事情や個人情報にも近いことを書こうと思ったときに、そういう人にはどうしても見てほしくないなと思ったのです。
そして何より、もう本当にだめになってしまった時に、弱音を吐ける場所を作っておきたかったのです。(上2つのブログは、ありがたいことに何万人もの方々に見ていただいているのですが、その分どうしても弱音を吐きづらいという思いが、ずっとありました。)
もちろん、有料にしたところで誰にでも閲覧できるという状態に変わりはないのですが、きっとそういう心ない言葉を吐きたいだけであったり、興味本位で覗きにきていたりするだけの人間は、そんなものに身銭を切ってまで買わないだろうと考えました。(もし買おうものなら、それは僕を結局直接的に応援することになるので、気持ち悪いを通り越してむしろ滑稽なので、まぁそれはそれでいいです)
本当は10円くらいに設定したかったのですが、noteでは最低価格が100円からしか設定できないらしく、100円で設定することにしました。申し訳ありません。人からお金を取るというのはあまり好きではないので、今まではどのブログも絶対に無料公開すると決めていたのですが、ちょっと限界が来てしまいました。もちろん、他の2つのブログの方も変わらず今まで通り(頻度は昔みたいにそんなに上げられないとは思いますが)更新していきたいと思います。こちらは、例えば公園の自動販売機の端っこに僕のnoteが売ってあったとして、缶ジュースよりもこっちを買うだろうな、と想像できた人だけ買ってください。
お金をいただく以上、使い道は説明しておかないといけないと思うので、以下に僕が考えている使い道を書いておきます。
・僕が生き延びた場合
この1年間、全国のたくさんの神社にお参りに行きました(神様は喧嘩しないので、神社はたくさんいけば行くほどいいらしいです)。出雲大社や伊勢神宮といった有名どころをはじめ、全国各地の神社にお参りして、病気平癒をお祈りしてきました。生き延びることができれば、そのお礼参り(賽銭・旅費その他)の足しにしようと思います。それで余れば自分の夢や目標のために使います。目下の目標はチケットを複数枚持っている、今夏のオリンピックの観戦です(オリンピック、さんざんの言われようですが、僕は結構楽しみです。出場が内定している高校の先輩がコロナ禍もずっと頑張っておられるのを見てきたので)。これも多分旅費が十万円以上かかるのでバイトか何かをして稼がないといけないのですが、移植後すぐバイトできる体力なんて絶対にありませんし・・・。(月10万円以上かかる通院費に使ってもいいのですが、それはあまりにも夢がないので)
・僕が死んだ場合
葬儀費用に使ってもらおうと思います。そうすれば、僕の葬式に来られない方はちょっとした香典代わりになりますし、僕の葬式に来る方にとっては、会場が少しでも大きくなっていいと思います(個人的には、葬式は大きな会場で盛大にやってほしいと思っていて、最近よくある「会場に全員が入りきれないので遅れてきた人はお焼香だけして速やかに退室」、みたいな小さな会場ではやってほしくないです)。
というわけで、ここからは有料にして、ずっと書きたかったことをのびのびとした気持ちで書きたいと思います。基本的には、終末期の人間に死がどう映るのか、そしてひとりの大学生が死をどう捉えているのか、ということを主題として毎回更新していこうと思います。今回書いたテーマは「なぜ緩和ケアではなく、助かる見込みの極めて低い移植を選択したのか」です。余命を限りなく縮めてしまうであろう選択をした理由について、これまでの経緯も含め、死ぬことに対する僕の思考の足跡とともに記しました。
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サポートは、葬儀と墓石の400万円の一部又は御礼参り費用として使います。御礼参りで余れば他の用途(通院高速代と医療費月約15万円や学費年60万円、通学ガソリン代(燃費が悪く週5で通う場合は月5万円、など計年300万円)に使うかもしれませんが、その際はまた随時報告の上使用します。