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犬も食わぬ親子喧嘩、でもおいらは、おいらと書く方がシックリ来るんだ〜*落書きnote

 こんにちは。お立ち寄りいただきありがとうございます。
 おいらはnoteに、自分のことを「おいら」って書くが、いつもおいらのnoteを読む娘は「おいらって書くのは読む人にとって、何か馴れ馴れしいっていうかふてぶてしい感じがするわね」と言う。
 「何故だ?」
 「だって、noteは書き言葉でしょ。それなら私とか僕とかって書くでしょうに、気安いお友達に話すように『おいら』なんて、それじゃタメ口じゃない」

 ふ〜ん、うるせえやつだ、顔はおいらに似て美人だが、ものの言い方は死んだ女房に似て来やがったぜ。
 「おいらに自分のことを私とか僕って書けというのか。余計なお世話だよ。おいらっちはな、昔から自分のことをおいらと呼んできた家柄、血筋だい。書き言葉も話し言葉もあるかい。意味が通じれば十分じゃねえか。おめえだって、それぐらいわかってんじゃねえか」
 「まあ柄が悪い。何なの、その言い方。それが娘に向かっていう言い方なの」
 「娘だから言うんだ。親が娘に言って何が悪い」

 おいらがエキサイトするもんだから、気が強い娘は口喧嘩ならお手の物とばかり二の矢、三の矢を飛ばしてくる。
 「私とか僕っていうのは、別に気取った書き方じゃないじゃない。ごく普通だわよ。そりゃお父さんが『ソレガシ』とか『セッシャ』とか言い出したら誇大妄想に取り憑かれた爺様と思うかも知れないけれど、『おいら』って書く癖を『私』とか『僕』に直すぐらいのことで、何を屁理屈こいてるのよ。人の忠告を素直に聞きなさいよ」

 「じゃ何か、言葉遣いを改めろってか。それじゃ『おいら』っていうところをTPOに応じ『本官は』『我が輩は』『小生は』『麿は』『朕は』という表現に改めるよ。それでいいんだろ」
 「バ〜カ、ふざけないで、もう勝手にしなさいよ」
 ふざけてなんかいるものか。おいらは私、僕と書くより、おいらとする方がシックリ来るんだ。誰が何と言おうとおいらはおいら派だ。


 ああ詰まらん論争?
 秋深き隣は何をする人ぞ。
 さて、あすは晴れるのか?曇るのか?

   *フォト ▽焼岳(上高地)の夜明け

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 *俳句巡礼 稲稔りゆつくり曇る山の国(廣瀬 直人)

 季語は「稲」で秋。田舎の時の流れは空も大地もゆっくりだ。作者は甲州(山梨県)に生きた人。大いなる自然を詠んだ。
 【廣瀬直人=ひろせ・なおと】山梨県生まれ、高校教師、飯田蛇笏(だこつ)、飯田龍太父子に師事、「雲母」同人、「白露」主宰、1929年(昭和4年)~2018年(平成30年)
 【俳句手控え】俳句は大きく分けて「一物仕立て」「取り合わせ」の二つで構成されている。
 一物仕立ては、ある一つの事象のみを詠む。有名句に「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」(飯田蛇笏)と一つ季語で深まる季節を詠む。
 これに対し、取り合わせでは「 降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)のように、季語に加え関係がない要素についても詠む。
 この句の季語は雪、その情景を見て明治は遠くなってしまったなあと、大きな歴史のうねりを感じさせている。

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