孤独は無二の親友、しかし孤立はNG〜*落書きnote
こんにちは。お立ち寄りいただきありがとうございます。
今日はヘビーなというか、ライトではない話。
ネガな意味で「孤独」が社会問題になる時代らしい。おいらは孤独をもっとポジに捉えているんだけど。
不寛容な時代、という。家庭でも世間でも不機嫌な人が多いように映るのはおいらだけだろうか?
車を運転しながら、自転車に乗りながら、歩きながらスマホを手放せない人を見て「ああ、あの人もこの人も情報の海で、いつも何らかのつながりを求めているんだなぁ。逆からみれば本当は孤独なんだ」とついつい思ってしまう。
哲学的分野の「孤独論」は、おいらには難解、読めば読むほど余計に頭の中がこんがらかっちゃった。
要は「ぼっち」という意味なんだろう。語源辞典では「一人ぼっちの略。一人法師の訛り」などとある。
三省堂の「新明解四字熟語辞典」を引くと「鰥寡孤独=かんかこどく」という耳慣れない言葉にぶつかった。
「身寄りもなく寂しい人のこと。鰥は老いて妻のない夫。寡は老いて夫のない妻。孤はみなしご、独は子のない老人のこと」
孤独の語源はそのへんにあるらしい。
出典は孟子。日本では律令制が敷かれていた遙かな昔、国家が困窮にあえぐ社会的弱者を救う基準として定められていたという。
だが、キリストも釈迦も、西行法師も芭蕉も、社長も部長も、お父さんもお母さんも、みんな孤独を内に秘めたる糧とし、明かりをともしている。
仏典にこうある。
「人は、世間の愛欲の中にありて、ひとり生まれ、ひとり死に、ひとり去り、ひとり来る。みずからこれを受け、代わる者あることなし」(無量寿経)
この世に一人で生をうけ、一人で去っていく。この絶対的な真実に目をそむけ続ける限り、孤独は苦しいものだろう。
おいらは長い間、それに気づかなかった。
「孤独」とよく似た言葉に「孤立」がある。
いずれも他者、社会との関わりで使われていると思うが、孤立は「社会的孤立」という文脈で語られる場合が多い。
おいらは孤独を自分を鍛える「もう一人の親友」とし、しかし孤立はNGというスタンスで色んな人との関わりをもって生きている。
つまり、孤独だが、孤立しているという自覚はない。
アメリカの女流作家エラ・W・ウィルコックス(1850〜1919)の言葉が身に染みる。
「君が笑えば、世界は君と共に笑う。君が泣くとき、君は一人で泣く」
孤独は無二の親友、孤立するべからず。
さて、あすは晴れるのか?曇るのか?
*フォト 秋色深まる
*俳句巡礼 語り部の一服の間をちちろ鳴く(中村 苑子)
季語は「ちちろ」で秋。蟋蟀(コオロギ)のこと。エンマコオロギは「ころころ」、ミツカドコオロギは「きちきちきち」と鳴く。
語り部のガイドが一段落した。その合間を縫ってチチロが鳴いた。季節の深まりを感じさせる。
【中村苑子=なかむら・そのこ】静岡県伊豆生まれ、久保田万太郎主宰の「春燈」から「俳句評論」に身を投じる、異能の才女といわれた、1913年(大正2年)~2001年(平成13年)
【俳句手控え】五七五の途中二ヵ所に切れが入ることを「三段切れ」といっている。つまり五七五を三つのパートにすることだ。
有名句では「目には青葉/山ほとゝぎす/はつがつお」という山口素堂(江戸時代前期)の代表句がある。
季語は青葉、ホトトギス、初鰹と三つとも夏だ。現代の私たちもこの句に接しスーッと夏の情景が目に浮かぶ。
今は「できるだけ三段切れは避ける」と指導するケースが多いけれど、名句の前では三段切れも脱帽である。