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論争決着せず?辞書の中の辞書のはずが弘法にも筆の誤り?〜*落書きnote
こんにちは。お立ち寄りいただきありがとうございます。
碁石、硯などで知られる「那智黒」。ネットで調べていたら、ウィキペディアに三重県熊野市教委と広辞苑の論争のことが出ていた。
おいらが重宝し、頼りにもしている岩波書店の「広辞苑」。「辞書の中の辞書」「天下の広辞苑」という。世に比類がない権威というわけだ。
しかし弘法にも筆の誤りというか、「間違い論争」が起きことがあるという。
広辞苑は第六版まで「那智黒」を「和歌山県那智地方に産出」と説明、熊野市教委に「原産は三重県」と指摘されながらスッキリしない言い訳をしているのだ。
那智黒とはどういうものか?歴代の広辞苑でみる。
【第四版】和歌山県那智地方産の、黒色の硬質な粘板岩(1991年11月15日発行)
【第五版】和歌山県那智地方に産したからいう。黒色の硬質な粘板岩(1998年11月11日発行)
【第六版】和歌山県那智地方に産出したからいう。黒色の特に硬質な粘板岩。試金石・碁石・硯石に用いた(2008年1月11日発行)
【第七版=最新版】那智の浦と称した和歌山県新宮市から太地町に至る沿岸に産出したからいう。黒色の特に硬質な粘板岩から成る小石。また三重県で採掘する那智黒石は硯、碁石などに加工される(2018年1月12日発行)
熊野市教委は1997年、碁石に用いる那智黒の産地が「那智地方」と誤記した三十八社の辞典に修正を求めたところ、「大半の辞典では修正されたのに、広辞苑は和歌山県那智地方のまま誤りを認めず訂正していない」という。
熊野市は「那智黒は熊野市神川地方でしか産出されない黒色で光沢のある石で硬質の粘板岩からなり、原石は三重県熊野地方、和歌山県那智地方で碁石、硯石などに加工されている」としている。
熊野市教委の説明をかみ砕くと「原石は三重県熊野市神川地方からしか産出されないが、碁石や硯石への加工は三重県熊野市、和歌山県那智地方などで行われている」ということだろう。
一方の岩波書店は、マスコミがこの騒ぎを報じたこともあって「その都度、史料などの考察を加え、第七版で修正説明した」と発表している。
岩波によると「史料には佐野村(現在の和歌山県新宮市)から浜の宮村(現在の和歌山県那智勝浦町)にかけた海岸では、那智黒がとれたという記録が残っている」と主張。
岩波は広辞苑第五版で「那智黒という名称の由来として、『那智地方に産した』と過去形で注記している。現在の那智黒の採石地を説明したものではない」と弁解めいたコメントを出したが、説得力がない。
つまり、「那智黒」に関しては、未だに岩波書店と熊野市教委の見解がズレて論争は決着していない。
広辞苑といえども「絶対権威」ではないということなのか?
あ〜あ、何を信じればいいのかねえ。
さて、あすは晴れるのか?曇るのか?
*フォト 秋天好日、はいパチリ!
*俳句巡礼 流れに沿うて歩いてとまる(尾崎 放哉)
自由律句。川の流れは万物流転を人に語りかける。放哉は立ち止まってそれをみつめている。
【尾崎放哉=おざき・ほうさい】鳥取県生まれ、東京帝大卒、種田山頭火と並ぶ自由律句の巨人、荻原井泉水に師事、放浪生活の後、小豆島西光寺の南郷庵で独居無言の生活、1885年(明治18年)~1926年(大正15年)
【俳句手控え】俳句は主に有季定型句、無季句のほか自由律俳句がある。これは五七五に縛られず「や」「けり」などの切れ字も用いず口語調だ。
自由律俳句を唱えたのは正岡子規の高弟、河東碧梧桐。子規門の双璧、高浜虚子は伝統俳句を継承。
自由律俳句は碧梧桐、碧梧桐門の萩原井泉水、井泉水門の種田山頭火、尾崎放哉らによって受け継がれた。