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藤沢周平「静かな木」で得た救い〜*落書きnote

 読んでいただくご縁を得たあなたに敬意を表します。

 人生は、喜怒哀楽の風車—。
 とかくこの世は「四苦八苦〜ひとときの安らぎ」の繰り返し。若い頃は、この四苦八苦を乗り越えるところに人生の喜び、達成感があるはずと信じていた。
 「苦」という字、生を終えるような苦しみじゃなくて、思い通りにならないという悩みみたいなものだろう。だから悩みの克服に努力するという意味とポジティヴに捉えていた。

 だが、違うかもしれない。
 おいら、この歳になるまで、それなりに山あり谷ありの人生だった。波瀾万丈と言いたいけれど、そんなドラマティックなものじゃなくて、平凡な人生の底辺でもがいた山と谷。
 有頂天になっていると時々、ストンと谷底へ落とされる。またよじ登る。汗をかくというのはしんどいけれど、それなりにエネルギーもあった。
 しかし。
 おいらは若い時の暴飲暴食、不摂生な生活が祟って循環器、心臓、腎臓がやられちまい、それまでの右半身不随に加え、去年から透析に入り、外出には車椅子と介助が必要だ。

 自業自得だから仕方ないが、健康を損ねると生きるのにエネルギーがいる。老化で体の機能が衰えているところへ病気のハンデが重なり、諸事万端にわたって意欲や好奇心が萎えてしまっている。
 これは困ったことになった…。そう痛感する。だが、気力がしぼんでいる。これではいかん。だが、どうしようもない。

 色んな本から類推すると、格差社会とやらで、おいらは負け組に入るらしい。負けちゃった身体障害者が、残り少ない人生を生きる。
 おいらの歩いてきた道、これからの道。予感するね。どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ、と。
 平家物語じゃないけれど、人生は盛者必衰、今日の栄華は明日の没落、という風に無常を感じるよ。もうおいらは今日の没落で、明日の栄華は望めないだろう。
 欲しいのは希望だ。
 車椅子の高さから目線を上に移せば、世間の格差がよく見える。

 おいらは藤沢周平のファンで、たくさんある彼の作品を再読、再々読するのが日課?になっている。
 彼の作品に通底するのは、主として江戸時代の下級武士や庶民、つまり無名の人々の善悪取り混ぜた生きざまを描き、希望や絶望の結末を読者の余韻に任せるところにある。

 例えば「静かな木」。
 東北の小藩、海坂藩の元勘定方で隠居の布施孫左衛門の話。侍とて平時は宮仕えの身。勘定奉行の鳥飼郡兵衛の収賄が表面化しそうになったとき、部下の孫左衛門は帳簿の誤記を装い郡兵衛を救い、自らは藩の処罰を受けた。
 家禄を減らされ、汚辱にまみれたそれからの二十年。末子の邦之助が郡兵衛の息子勝弥と果たし合いをすると知った孫左衛門は、理不尽な息子の決闘を避けようと当時の勘定方の同僚寺井権吉らの協力で愚物郡兵衛の旧悪を暴く。

 最後のくだりには、こうある。 
 さくらのつぼみがふくらみはじめたころ(邦之助の婿入り先)間瀬家には初孫が生まれた。これがじつにかわいらしい女児で、散歩の途中、孫左衛門は足がとかく間瀬家の方に向きがちになるのを押さえるのに苦労する。
 生きていれば、よいこともある。
 孫左衛門はごく平凡なことを思った。軽い風が吹き通り、青葉の欅はわずかに梢をゆすった。孫左衛門の事件の前とはうってかわった感想を笑ったようでもある。

 このところの日常に、何となく暗いものを感じていたおいらは、再々読の「静かな木」の向こう側に光明を見た。「生きていれば、よいこともある」。
 老齢ゆえの孤独と寂寞感が、まるで霧が追い払われるように晴れた。
 「愛憎の果てに咲きけり寒椿」
 そんな気持だ。まだ寒い。だが三寒四温、春は近い。
 さて、あすは晴れるのか?曇るのか?

 *俳句巡礼 悔もちてゆく道ほそし寒椿(村野 四郎)

 季語は「寒椿」で冬。「悔い」は誰にでもある。「行く細道」が「悔い」の心を強めるが「寒椿」が希望を感じさせる。
 【村野四郎=むらの・しろう】東京出身、慶大卒、実業家、詩人、自由律句の俳人、1901年(明治34年)〜1975年(昭和50年)
 【俳句手控え】椿は春の季語、寒椿は冬の季語。
 椿の開花は二月~四月頃、色は紅、色は赤のみ、花が散る時は根元から全部落ちるのが特徴。
 寒椿は十月〜二月、椿より早く寒さを感じる時期に開花する。花の色は赤、白、ピンク、紫。花弁とおしべはバラバラにに散る。

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