初笑い&コロナ終息へ政府は希望を!〜*落書きnote
読んでいただくご縁を得たあなたに敬意を表します。
明けましておめでとうございます。コロナという疫病のおかげで、今年も、素直にそう言えぬ2022年の新春だった。
どちらかいえば、一休禅師の「門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という気分だな。
落語「目黒のさんま」に「寝ては夢、起きてはうつつ、幻の」という作者不詳の言い回しがある。
それに倣えば今年は「寝ては夢、起きてはうつつ、幻の、人を侵せし疫病の、姿を見せぬ影と闇、目に見えざると知りながら、何とかしたいが人の常、コロナは思案の帆かけ船、いったいどこで終息するのやら、このウイルスばかりは別物じゃ」とボヤキたくもなる。
遣唐使の昔から「人が動けば疫病は広がる」というエビデンスがあるのに、政権は経済も大事、感染対策も大事と、理想的な言葉を並べ立て、結局、二兎を追う者は一兎をも得ずという状況に陥っているのではないだろうか?
この非常時に、国民が頼るのは信頼できる「政治の決断」。だが悲しいかな「決断できない決断」に国民は不安を増大させでいる。
越年したコロナ問題に、みんな「終息へのシナリオ」を待望している。
初春。初仕事。姫始め済んだ?えっ、卒業?そりゃあ…。新春は、何でも「初ナニナニ」だ。
なかでも初笑い。落語や漫才の木戸銭を払わなくても健康に効く無料の薬。笑いは誰にでも、身の周りにある。おいらにもある。
加齢と共に笑いが少なくなり、鏡をみてニーっと笑うが、治療中の前歯が欠けてただでさえアホ顔なのに、それを通過してマヌケ顔、助平顔になったと絶望した。
ある時。「小」が少々近すぎて時速50キロでトイレへ駆け込み、チンを出そうとしたが出てこない。もう先っチョまで黄金水が出かかっている。焦りまくった。朕のチンはどこじゃ?こりゃ迷子届けなるぞ。
いや、待てよ。ズボンを下ろして点検。な、な、何と、バッチ、いやパッチの前後が逆。ンなアホな。
それでさぁ、慌てまくって、はいているものを全部床まで下ろし、シャーっとやった。あ〜あ、間に合った、スッキリ、もうちょっとで漏らすとこだった。
既に愛車のロールスキャベツを生活苦で手放し、運免(運転免許証)もお上に返納したある時、おいらは友人を訪ねるためバスに乗った。
すると、前の席で高校生とみられる男女が、堂々とチューしておるではないか、な、なんといふことを、ウラメシー改めウラヤマシー。
公衆の面前で、秘めごとを白昼堂々さらしおって、おいらの腹のムシがカンカンに怒っておったが、おいらは、そのガキのイチャイチャを目を皿にして凝視していて、降りなければならないバス停を降り損ねたわい。
さて、あすは晴れるのか?曇るのか?
*俳句巡礼 三日程富士も見えけり松の内(巖谷 小波)
季語は「松の内」で新年。「注連の内=しめのうち」ともいう。門松を立てておく期間。関東では六日まで、関西では十五日までという習慣。
【巖谷小波=いわや・さざなみ】東京生まれ、明治、大正の作家、児童文学者、俳人、1870年(明治3年)〜1933年(昭和8年)
【俳句手控え】新年の句は、季語以外におめでたいことを書かないということである。
例えば、仮に「正月やみんな揃って恵比須顔」という句を作ってみた。「正月」は新年の季語。正月に家族や親しい人が寄り、恵比須顔になるのは当たり前。
つまり、おめでたいことをクドクド説明している。これはNG。五七五という制約の如何に言い重ねを防ぐか、これは意識した方が良い。