忘れている神仏の視線、おいらはお天道様がみていまさぁと教わったね〜*落書きnote
こんにちは。ようこそ。お立ち寄りいただきありがとうございます。
私は処世の知恵とやらで、色々、外面を取り繕ってはいるが、実はエエカッコしいと、一方では自覚している。
「心を豊かにする菜根譚」(法相宗前管長・多川俊映著=祥伝社黄金文庫)に「人目を慎むといえども、まったく冥の照覧を忘れぬ」というくだりがある。
鎌倉時代の僧、解脱上人貞慶の「愚迷発心集=ぐめいほっしんしゅう」にある言葉だそうだ。
冥(みょう)は「目に見えない神仏の働き」、照覧(しょうらん)は「神仏がごらんになること」(いずれも広辞苑)。
つまり「人目を気にするが、神仏の視線は忘れている」。さらにいえば「人目がなけりゃ何でも平気」なのだ。
悪いことに、最近は人目があっても平気な人が増えてきたような気がする。しかし、人は騙せても自分は騙せない。
自己流に解釈すれば「自分のことは棚に上げ、平気で人の悪口を言うが、神仏のまなざしを度忘れしている。たまに良いことをしても、つい暗に、名誉欲など代価を求める」(意訳)。
まったくその通り。
おいらは親父から「お天道様がみていまさぁ」と教わったね。
さて、あすは晴れるのか?曇るのか?
*フォト ▽祈りが人を生かす
*俳句巡礼 夏の山とラバの色とはわかれけり(藤後 左右)
原句は「夏の山と溶岩の色とはわかれけり」。「ラバ」とは「溶岩」のこと。遊歩道から見上げた桜島(鹿児島県)の風景。ただただ大自然のダイナミックな営みに圧倒される。
【藤後左右=とうご・さゆう】 鹿児島県出身、京都帝大卒、医師、鈴鹿野風呂、高浜虚子に師事、平畑静塔らと「京大俳句」を創刊、「ホトトギス」、1908年(明治41年)~1991年(平成3年)
【俳句手控え】俳句では、句の中に「切れ」の働きをする「〜や」「けり」「かな」などを入れ情趣を深め、奥行きを高める「切れ字」を使う場合が多い。芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の「や」などが切れ字に当たる。