根拠のない自信
<2020年10月に書いた記事です>
すっかり秋らしくなってきました。マスクをしての稽古が続く中、暑さによる熱中症の危険がとても氣になっていましたので、涼しくなって少しホッとしています。もちろん、感染予防対策に対する氣を緩めるわけではありません。これまで通り、充分な対策をした上で、皆さんと楽しく氣を出して稽古していきたいと思っております。
こんな風に、2020年というのは、常にコロナのことが頭の中にある日々が続いてきた年です。ウィルスに感染することが「悪」となり、マスクをしないことが「悪」となり、人と会って食事することが「悪」となり、などなど、これまでと違った基準が世の中に出回るようになりました。とってもとっても氣が滞りやすい環境になってしまっていると思います。
「氣が滞る」=「心が自在に使えなくなる」(心の働きが鈍くなる)
氣の原理では、「氣が通っているとき、心を自在に使える」としています。氣が滞ると、その反対が起こるということですね。
氣が出ている時は、広く周囲を見て感じることが出来、物事を部分でなく広く全体で捉えることが出来ます。
氣が滞っていると、感じ取れる範囲が狭くなり、部分にとらわれて全体が見えなくなります。
2020年は芸能人だけでなく、全国の自殺者数が増加傾向にあるそうです。これこそが「氣の滞り」の最たるものではないかと思います。
最近私がハマっている"YOUTUBE講演家"の鴨頭嘉人さんの話で、「人は”選択肢がない”と思うと絶望する」と言われていました。
私は幸いにも「死にたい」とまで思い詰めたことはありませんが、「そうなったら楽になるかな…」ぐらいの考えが頭をよぎったことぐらいはあります。その時の自分を振り返ると、本当に視野が狭くなり、自分一人だけの狭い世界の中でしか物事を考えられなくなっていたのだな、と今は思います。
たとえばサラリーマン時代、大型案件がいくつもまとめて出てきた時、全部自分一人で背負わなければならない、と思い込んでしまい、ものすごく追い込まれた心境になり、「いなくなれたら楽になるかな…」なんて思ってしまったこともありました。でも今になって考えれば、上司にも同僚にもいくらでも頼ることの出来る人はいましたし、いくらでも解決方法があり、事実それは何とかなりました。
氣が滞っている時ほど、「自分は一人だ」と思ってしまいがちなのではないでしょうか。そして、その狭い可能性の中でだけ選択肢を探してしまい、結果として「選択肢がない」と思いこんで、絶望してしまう。
でも、天地(大自然)と氣が通っていれば、逆に自分一人で出来ることなど何もないのだ、と氣づくことが出来ますよね。呼吸をしたり、心臓を動かしたり、内臓が働いてくれているのは、私たちが自分一人の力でしょうか?地球が自転・公転することで、夜が来ても必ず夜明けが来て、寒い冬の後には暖かい春が来ることで、様々な生命が躍動して、その生命を頂くことで我々は生きている。これって誰の力でしょうか?
ある人は神仏といい、ある人は天地自然というでしょうが、いずれにせよ何者かによって「生かされている」のが我々です。
「氣が滞る」が極限に至ると、このことが見えなくなり、孤独に陥り、絶望する。そうならないように、日ごろから氣を出して、天地と一体であることを意識することは、とても大切なことだな、と改めて実感しております。
こうしたことが背景にあり、最近特にこども達に対して意識しているのが、「自信を持って欲しい」ということです。私自身の接し方に問題があるかもしれませんが、最近のこども達には、自信のない子が多いように感じます。
「自信」という言葉は、「自らを信じる」と書きます。そうは言っても、そう簡単に信じられるものでしょうか?自分一人、今ここにいる、鏡の中にいる「自分」そのものを、どこまで信じられますか? 「信じられる!」と言い切れる人は、かなり「氣が出ている」人で、大変良いことだと思います。でも、あまりいないのではないでしょうか。
この、信じるべき「自分」を、たった一人の人間だと捉えると、なかなか全面的に「信じる」とは言いにくいと思います。
しかし本当は、「自分」とは、この世にたった一人で存在しているわけではありません。両親をはじめ祖先たちがいて、身近な家族や友人たち、仕事で関わる人たち、将来においてこれから関わる人たちなどなど…、たくさんの人との関係性の中に「自分」は存在しています。また、「生きたい」と強く思わなくても、自然と呼吸はしており、寝て起きて飲んで食べて出す、などなど、自然に生きていく機能が働いていることを考えても、やはり私たちは「天地に生かされている」とも言えます。
ですから、本来「自信」とは、そういう天地や人との関わりの大きな大きな輪の中に生かされている「自分」を「信じる」ことなんです。
そのことに氣づくことで、人は「根拠のない自信」を持てるのではないでしょうか。
何か新しいことに取り組む時に、「こんなことムリだろ」、と思って臨むか、「よし、出来る!」と思うかというのは、大変な違いがあります。新しいことというのは、経験のないことなのですから、ムリと思うのも出来ると思うのも、どちらにも根拠はありません。
しかし、自信のある時は「氣が出ている」ので、物事を広く大きく捉えることが出来、使える選択肢が増えます。ムリと思いながらやる時は、心身分離の状態で、一部分に捉われて執着に陥りやすくなります。どちらの方が、うまくいきそうでしょうか。
日本人には特に「謙譲の美徳」があります。それに反して「何の根拠もなくても自信満々」、そんな人のことを我々は心配して諌めたり、嘲笑したり、否定したり、咎めてしまう傾向があります。でも本当に大きなことを成し遂げた人は、大体はじめは周りから反対されたり迫害されたりしていますよね。それでも「根拠のない自信」に支えられて、自ら信じる道を突き進んだ結果、大きな成功を獲得する。
すべての人が、必ずしも大成功者である必要はありません。でもこういう在り方であれば、少なくとも自ら命を絶つようなことは、選択しなくてすむように思います。
8月からこどもクラスで始めた「出来たノート」には、その日に「出来たこと」を書いてもらい、私からのコメントでも、出来る限り全てを承認するようにしています。「根拠のない自信」の助けになるべく、出来るだけたくさん承認された、という成功体験を積み重ねてもらいたい。(そうすると、根拠のある自信、になるのかもしれませんが…)
そんな想いで毎回コメントしています。
心身統一合氣道は「プラスの教え」です。あらためて、関わる全ての皆さんをプラスに導くことを我々の使命として生きていきたい、と思っています。
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