日記より24-22「丹前」

日記より24-22「丹前」                                                                               H夕闇      
    二月六日(土曜日)曇り
 コロナ下に花粉の便り。更に確定申告の季節も近付いて、気が重い。
 只さえ僕は税制の全般的な仕組みが分かっていない。(それで、いつも人に手伝ってもらっている。)その上、国民年金の保険料は家族個別に納付しなければ成(な)らないのだが、娘は滞(とどこお)り勝(が)ち。それは支払う余裕が無いのか、将来の支給に不安を感じるからか、日本年金機構から委託を受けたと言う某社から督促の電話が時々入る。娘は不在と答えて、諸々(もろもろ)に言い訳を申し上げねば成らぬ。
 僕は借金が嫌いで、家を建てた時以外は殆(ほとん)ど借りた験(ため)しが無い。その住宅ローンだって退職金で綺麗(きれい)サッパリ完済し、その際は実にホッとした。(それまでは、死ぬに死ねない気がして、緊張感がズーッと続いていたことを自(みずか)ら知った。)年金保険料とローン返済とでは経済上の意味合いが違うのだろうが、月々金銭を納める義務の有る点で僕には同然である。それを滞納して人様から催促されると、何とも後味が悪い。真(ま)っ平(ぴら)である。
 それで、親子で擦(す)った揉(も)んだした挙(あ)げ句(く)、僕が残った分を肩代わりすることにした。それ以前のは既に納入済みであることを本人が機構と電話で確認し、その領収書も何枚かは見付かって、確定申告の控除額に加えることが出来(でき)る運びとなった。やれやれ、これで先ずは一安心。

 一方、これで申告書の作り直しが必要になった。が、今月十六日(申告の開始日)まで未だ間が有るから、そっちは先延ばしして、きのう取(と)り敢(あ)えず保険料を仕払いにS銀行へ出(で)掛(か)けた。残雪の道々改めて考えると、これは子供の老後の生活費を心配するということで、親ばかで、心もと無い話しでもある。
 親の老後を子が見る古い慣習は、一体(いったい)どこへやら。その為(ため)に、家督(総領)が跡を継ぐ家(いえ)の制度が日本には有った。旧社会の近代化を進めた戦後改革を経(へ)、バブル崩壊やらリーマン・ショックやら有って、留めが刺された。若者世代に就職氷河期とか引き込もりが襲来、老いた父母が中年のむすこ娘を支える逆転現象さえ起っている。我が家は辛(かろ)うじて擦(す)り抜(ぬ)けたが、危ない所だった。
 金銭上は扨(さて)置き、学者の秘書として著作や講演の手伝いをすることに社会的な意義を感じ、末娘本人は満足して働いているようだから、先ず良しとせねば成るまい。
 父親が納めた保険料が、遠い将来に娘の暮らしの足しになる。その数十年後この僕は生きていないかも知れない。もう居ないのに役に立つ、と云(い)うのは不思議(ふしぎ)だが、有り難い仕組みである。その時、果たして老いた子が死んだ親の恩を感じるか否かは、また別の問題であるが。

 けさは早く目が覚めた。裏の土手のベンチからコーヒー片手に朝焼けの景色を眺(なが)めるにも、未だ早かった。
 それで、寝床へ戻って、枕元の電灯を頼りに、読み掛けの「小泉八雲集」を開いた。文明開化と云う名の西洋化が進む明治の日本を訪れて(日本人以上に)失われつつある日本的な生活感覚を惜しんだ西洋人ラフカディオ・ハーンが、書き残してくれた古い民話である。民話を採集した柳田国男やグリム兄弟と同様、それぞれ地元の人々の魂の有り様(民俗)を今日に伝えた業績は大きい。それは、説話文学(例えば「今昔物語り集」)の千年の伝統に繋(つな)がる。
 その昔、悪い行いをすると(仏罰や報(むく)いとして)こういう恐ろしい祟(たた)りが有るぞ、と地獄絵を見せたり怪談を語って聞かせたりする勧善懲悪が、日本の一般的な躾(しつ)けの形だった。因果応報の仏教観に基(もとづ)いた物だろう。嘘(うそ)を言うと(死後に地獄で)閻魔(えんま)に舌を抜かれる、(又は舌の先が二枚に分かれる、即ち二枚舌)罪を犯すと(産まれ変わる時に)人間になれない、(蛇(へび)になる)、、、などといった寓話の類(たぐ)いも、その単純な例である。八雲(ハーン)は、その中でも哀れ深い言い伝えを選んだようだ。
 新型コロナ・ウイルスの感染拡大が(欧米に比べて)爆発的でない点で、日本人の倫理観を云々(うんぬん)する論者も居るようだ。東日本大震災の時も同様だった。だが、祟りで脅(おど)し付(つ)けて躾ける仕方は、社会の倫理としても教育の方法としても、僕は賛成しない。それは幼い子の深層心理にトラウマの禍根を残し、心理的な体罰や虐待とも云える。死後や世の終わりに神の厳しい裁きが待っているぞ、と脅(おびやか)す西洋人のキリスト教だって、大同小異である。子供を健全に育てるには、荒唐無稽(こうとうむけい)の絵空事(えそらごと)で強迫的に脅迫(きょうはく)するのでなく、科学的な社会観を前提とすべきだ。

 僕の母は看護婦として働いて、僕を育てたのは祖母だった。後に、弟や(叔父の子の)いとこたちも一緒(いっしょ)だった。
 僕が少し長じた頃の記憶だが、炬燵(こたつ)に当たってテレビを見ていたことが有る。多分「耳なし芳一(ほういち)」という題名の白黒映画が、放送されていた。(さすがに「総天然色」のカラー放送は始まっていた筈(はず)だが、白黒の方が恐怖感が増幅されるからだろう。)僧侶が芳一少年の体あちこちに筆で経文を書き付けて怨霊(おんりょう)から守ろうとする場面、物語りにスッカリ釣り込まれた祖母が、身を乗り出して「ほれ、耳っ!。かぎわしぇだどお。(書き忘れたぞ。)耳さ書げ。早ぐ書げえ。」と叫んだのだ。その真剣な声音(こわね)は、我を忘れ、いかにも少年を支持し援護しようとする同情と慈愛に満ちていたことを、僕は覚えている。
 けさ早く丹前(たんぜん)(丈の長い綿入れ袢纏(はんてん)の夜着)の袖(そで)から片手だけ出して文庫本を支え乍(なが)ら、その原作「怪談」の同じ場面を読んで、祖母の夢中な声援を思い出した。あの時の祖母が心を寄せて必死に守ろうとしたのは(感情移入した祖母の心の内では)僕ら孫たちだったのかも知れない。半世紀も経た今にして思い当たったとは、随分と永い時を越えたものだ。
 僕が幼く、八つ離れた弟たちも未だ産まれなかった頃、炬燵ぶとんの下(櫓(やぐら)との間)に祖母は僕の丹前を拡げて掛け、温(ぬく)め、僕が寝る時それを引き出して来て、横になった僕の上に掛けてくれた。それは大層ホカホカして心地(ここち)良かったことを、僕は未(いま)だに肌の感覚として記憶している。夜毎(ごと)そうやって祖母は冬の寒さから僕を守ったのだった。
 漸(ようや)く独立して暮らすようになった若い娘も(いつか僕が居なくなった頃)老いる日が来て、父親が年金で多少は生活を守ったことを思い出すだろうか。                     
(日記より)

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