発育良好
日記より26-28「発育良好」 H夕闇
三月二十五日(金曜日)曇り
きのうは娘Kが職場へ行くと言うので、孫kの守りを頼まれ、夫婦で出掛(でか)けた。通勤ラッシュで電車が混み合う時間帯を避け、早目に出発した。
入念に嗽(うがい)手洗いを済ませ、四日ぶりに対面した孫娘は、眉(まゆ)が黒々とクッキリした印象を受けた。四日前は(その日もSOSが有ったが、)頬(ほほ)が少々垂れ気味(ぎみ)な位(くらい)に下(しも)っ膨(ぷく)れの感じだったのが、昨日やや引(ひ)き締(し)まった顔立ちに見えた。
これがバーバ手製の王冠型の黄色い枕(まくら)で無邪気(むじゃき)に眠っていると、京都は広隆寺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像に似ている、とは古女房の感想である。そして時に古拙な微笑(アルカイック・スマイル)を浮かべる。弥勒菩薩を琴の師匠N先生が好きで、写真を寝室の壁に飾っていた。母親のKが(幼い頃)屡々(しばしば)そこの寝台を借りたものだ。
揺(ゆ)り籠(かご)から孫菩薩を抱き上げた妻は「おお、重くなった、重くなった。」と歓声を上げた。
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間も無く、娘はT保育園へ出掛けた。Kが沖縄から引き上げて今の職場に就職した後に受け持った零歳児が、この春に卒園。先週その卒園式が有ったが、コロナ対策として出席者を少人数に絞(しぼ)り、産休中の娘は(残念ながら)招かれなかったと言う。きょうは卒園児たちと会える最後のチャンスとのこと。
どんなドラマが園で展開したのか、はた又さしたる大団円は無かったのか、(産休前から職場に預けっ放しの大荷物の運び方を手伝うべく、T駅で待ち合わせ、)駅前で一緒(いっしょ)に昼食を摂(と)った際、娘は多くを語らなかった。夾雑物(きょうざつぶつ)の多い世の中、語って語り切れぬ程の思い出が出来たなら、大いなる幸いである。
何年も前に結婚式へ呼ばれた時の参列者同士の会話を、僕はフと思い出した。結婚したMは、僕のM高での教え子で、保育士として働いていた。
かの女(じょ)の母堂も同業者。(当時は「保母」と云(い)ったが。)その姿を見て育った娘に取(と)って、保育は天職だった。夏休みのボランティア活動として、近所の保育園へ(職業体験がてら)手伝いに通った。その受け持ち生徒Mのことを、後に進路に迷った僕の娘Kに話すと、娘も保育園体験を試(こころ)みた。それで迷いが払拭(ふっしょく)できたようだった。だから、今Kが保育士をしているのは、半(なか)ばMの御蔭(おかげ)とも云えるのである。
教え子の結婚披露宴のテーブルでは、新婦の職場からの招待客たちと相席になった。互いに名乗り合い、新婦との間柄など自己紹介すると、相客の一人が「高校の先生は良いですねえ。」と言った。教え子が結婚する時に招かれるのは、決まって高校時代の担任だ、と言うのである。保育士は、結婚する年頃には疾(と)うに忘れられていると。一同が揃(そろ)って頷(うなず)き、招待の電話を受けた時の高校教師の懐(ふところ)具(ぐ)合(あ)いなどと云(い)う下世話(げせわ)な問題は、僕の脳裏から消えた。そして、妙に愉快で呵々(かか)大笑(たいしょう)したことを、今も覚えている。
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T駅前で軽食の後、Z川の畔(ほとり)を親子で家路に就(つ)いた。対岸のO小では終業式らしく、小学生たちも大荷物を携(たずさ)えて帰って行く。街路樹の木蓮(もくれん)が真っ白に咲き揃って、瑞々(みずみず)しい。だが、遠くⅮ山を望むと、テレビ塔が二本(家並みの谷間から)少し霞(かす)んで見える。中国大陸から黄砂が飛んで来ているそうだ。
帰宅すると、孫は(昼前の入浴が気持ち良かったらしく、)ズーッと寝ていると言う。「せっかく来たんだから、」と夜泣きで寝不足の娘に昼寝を勧め、妻は台所に立った。娘の鍋(なべ)の汚れが気になるらしく、磨(みが)き方が始まった。
そう言えば、結婚して間が無い頃、妻の母が同様のことをしていた。あれは、娘の躾(しつ)けが不十分だったことの責任感だろうか。教育できなかった不徳を恥じるのか。いずれ、娘の夫に対する申し訳なさ等、何らかの態度表明が関わっているのではあるまいか。何しろ、娘が片付いたのは一安心であるものの、又それとは別の気(き)懸(が)かりが女親には生じるものらしい。
片付けや使い勝手などに関しても、妻は色々思う所が有るようで、孫が歩き始めたら云々(うんぬん)、と先々のことまで一人でブツブツ言う。どうやら、久しぶりに娘の母に戻ったらしいのである。
娘が漸(ようや)く寝付いた頃、騒々しく玄関チャイムが鳴った。僕が応対に出て見ると、音楽に託(かこつ)けて諸々(もろもろ)言っているが、(手渡されたパンフレットを見ると、)要するに宗教の勧誘らしい。お蔭で、その侭(まま)Kは睡眠不足を解消できなかった。「こちらの事情も知らずに、、、」と縁もゆかりも無い人間の自己主張に憤慨(ふんがい)した。「『赤ちゃんが寝ています』と玄関に張り紙しておきなさい。」と家内も腹立たし気(げ)に言う。そう言えば、「押し売り勧誘お断り」といった張り紙が、近隣のチャイムや郵便受けに多い。
三時には予約した保険屋が訪れて、娘が出た。
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帰りの電車は未だ混んでいなかった。半月来マスクを着けるか否(いな)かは任意だそうだが、一人の中年男性を除いて、殆(ほとん)どの乗客が着用している。そして一様にスマホを覗(のぞ)く。一昔前なら、本を開き、新聞を拡げる所(ところ)だが、全然そんな人は居(い)ない。増(ま)してや、ゲラ刷(ず)りに朱筆を入れる者など(一人を除き)皆無だ。
そんな社会見学の最中(さなか)、隣席から妻がスマホを示した。母子手帳の写真を、娘が送って来ていた。
前日は孫の一箇月健診が有って、(実際には誕生から一月半が経(た)ったが、)身長や体重の測定結果が記録されたページが写っている。出生時の頁(ページ)と比べると、一箇月半で体重が一倍半。出生直後に一旦は生理的に減った筈(はず)だが、その後に千六百グラム余りも増えた。(そんなにムクムク育って、体中むず痒(がゆ)くないのだろうか。)身長も五センチばかり伸びた。(見た目の印象としては、もっとズッと大きくなった気がするが。)驚いたのは、胸囲と頭囲だ。胸より頭の方が約五センチも大きいのである。その相対関係は、今も出生直後も変わり無い。
そして、最後に「発育良好」とスタンプが押されて有った。赤い(半(なか)ば黒も混じった)インクが滲(にじ)んで、文字も丸々と太った「発育良好」である。この太鼓判(たいこばん)をバーバは見せたかったのに違い無い。
庭に一輪ゆすら梅が咲いた。例年ほぼ桜の開花と相(あい)前後するのだが、今春は一歩を先んじた。 (日記より)
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万緑(ばんりょく)の中や吾子(あこ)の歯生(は)え初(そ)むる
(中村草田男(くさたお)「火の鳥」より)
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
をゆび の うれ に ほの しらす らし
(会津八一(やいち)「自註鹿鳴集」より)