【雑文】丁寧に生きられないということ
noteを有効活用しきれない!
さきがけ文学会のゆうやです。こんばんは。
今日は「お前は何を言ってるんだ?」的な雑文を垂れ流そうと思います。
丁寧に生きられない。
突然ですが、私は「丁寧に生きられない」人間だと思います。
基本は出たとこ勝負。
繊細な人の気持ちなど食い潰して生きている。
そのくせ自分の痛みにだけは異様に敏感です。
私みたいな奴が表現やってていいの?って思いますね。
いいんですよ。細かいことは。
繊細な心に触れる。
けれど、文芸やってると嫌でも触れていくんです。
そう。「繊細な心」に。
びっくりするほど、時に文芸人は繊細で。
絹の縫い目みたいに。
雪の影のように。
そのあまりの儚さに驚き、自身の杜撰さに内省し、どうしようもなさに打ちひしがれて、開き直って生きていってるんです。
私は文芸が好きです。
文芸を生み出す人が好きです。
美し過ぎて、触れると壊れてしまいそうで、躊躇うその距離の、その前に足踏みを繰り返しながら。
生きていくことを、私は選んでいるのだと思います。
痛みということ。
「繊細さに憧れているなら、お前も繊細になれば?」という話なのですが
挑戦しなかったわけではないのですよ。
痛みは私の永遠のテーマみたいなところがあるので。
結論から言うと無理でした。
死ぬからです。
何を言ってるかと言うと、
自分は、割とありとあらゆる痛みみたいなのを経験して生きてきた方だと思っていて。
うーん、何から言えばいいのか。
例えば一つ挙げるなら
かくかくしかじか、色々あって
私の左足って文字が彫ってあるんですよ
「早く死ね」ってね。
どんな人生送ってたら左足に「早く死ね」とか刃物で切られる展開になるんだって話なんですけど
まあ多分、本当に死ぬまで毎日、私は私に「死ね」と言われながら生きて死ぬのです。
もう、何もかもが「痛い」
物理的に痛いし、精神的に痛々しいし、というか、社会的にイタい。
そういう、一つ一つを
見なかったようにして生きてるんです。
痛いものを「痛い」と理解することは
繊細に生きるということは
普段目を背けてる痛みに向き合うことで
それは私には、割とガチで生死に関わってしまうのだと。去年ぐらい、悟ったんです。
詩を書くこと。
痛い生き方してるやつによくある傾向で
「自分が一番この世で不幸だと思う」というのがあります。
例外なく、私もそんな事思って生きてきました。
自己憐憫って本当に安全な痛み。
それをね
この1年ばかり、客観的にアウトプットする実験を続けていました。
そう、
「詩」です。
「安全な痛み」を安全にしない。
「世界で一番不幸」なのではなく、的確に「何番目に不幸なのか」考えてみる。
そんな酔狂な事をしていたんですね。
なかなか良い詩がかけました。が、
私のメンタルはゴリゴリに削れました。
でも、本当に何番目なのか限りなく近づけた痛みたちは
「見つけてくれてありがとう」とか言って
成仏していってくれたように思います。
詩は供養。
少なくとも、この1年の私の詩は
彷徨える痛みにして便利に搾取していた
いくつかの痛みを成仏させる事ができました
詩を投稿すること。
霊力を失ったパワーストーンみたいになった詩を
いくつか投稿したりしてみて
今回、その一つが評価してもらえることになりました。
(ありがたや、ありがたや)
成仏した痛みが、そのまま解脱しそう。
それはさておき、
今回みたいな痛みの詩って、本当にどこにも引っかからなくて
割と評価されるのは、ありふれた日常を読んだ詩なんですね。
優しくて
愛情溢れてるやつ
私が愛情溢れて描いた詩がね
「切ない」って
「不安だ」って言われるんです
詩ってもうよく分かんないな。
詩を読む人は、けっこうな確率で詩人で。
繊細な人たちです。
繊細な人たちは、私がどれだけ愛情深く詩を詠んだって
どこか勘づくみたいで
私も気づきたくないような、私の「本性」みたいなもの。
あー、もうだからね。
文芸人ってヤバいなって思うんです。
繊細になんて生きられないですよ。ホント。
つまり、何が言いたいか。
つまり、何が言いたいのかと言えば
この度、第19回文芸思潮現代詩賞で、奨励賞をいただきました。
本当に、本当にありがとうございます。
これからもガサツに詩を書いていこうと思います。
天邪鬼を拗らせたような文面になりましたが、今後ともよろしくお願いいたします。
かしこ