見出し画像

詩を1ミリも理解しない私が私家版詩集を出すに至ったあれこれ。

お久しぶりです。
ブログ更新しないゆうやです。
ええ、このたび私家版詩集を上梓いたしましてね。

「え? 詩なんか書いてたっけ?」って話ですよね。
うん、そう。自分でもびっくり。
そもそも小説畑出身→文芸誌編集
→文芸情報誌編集(文芸イベント主催)
→2022年、コロナで活動休止
私家版詩集出すところあった?って話です。

実際、2020年ぐらいまで「詩なんか1ミリも分からん」とか言ってました。
そんな「1ミリも詩が分からん」かった私が、私家版詩集を出すまでにいたった経緯を、裏事情全開でお伝えできればと考えています。


1.私家版詩集「unbox/開けてはならない」のぶっちゃけまくった内部事情

改めまして、このたび2024年3月、「泉水雄矢」名義にて私家版詩集を上梓致しました。

泉水雄矢「unbox/開けてはならない」

こちら2020年から詩の勉強会「冷泉詩話会」に通い続け、書き溜めた詩20篇をまとめた私家版詩集になります。(実際はほとんど2022〜23年のもの)

カッコいい装丁でしょう?(手前味噌)
表紙はフリー素材♪(´ε` )
ネットで安い印刷所探して、ワードで表紙も本文も自分で編集したよ!
印刷費は、88ページ30部で1万円ぐらいでした!

装丁は特殊紙ペルーラ(光沢でキラキラしてるやつ)+PPマット加工!
これは大正解。
表紙のグレーの部分がほんのり銀色っぽくなって素敵。表紙裏は加工無しなのでめくるとキラッとするのも良いです♪(´ε` )

強いて言うなら、傷が目立ちやすいのと、湿気に晒しすぎると表紙がペラーっと捲れ上がってしまう事です。(除湿剤といっしょにするか、表紙がめくれないように気をつけると防げます)

今後「私家版詩集出したいけど、表紙デザインに自信ないわー」って人がいたら、「特殊紙+PP加工」おすすめです!
(PP加工に使える特殊紙かどうかはネットや印刷所さんで調べてね!)

2.そもそも「私家版」「上梓」って何や?


自分もよくわかっていません!←

「そう言った方が詩人っぽくね?」と雰囲気で使ってるところがあります!!←←

そこでGoogle先生に聞いてみました。

「私家版」ググってみた

……分かるような、分からんような。

……同人誌とは違うの?

……自費出版?

要するに
「自費出版」→出版コード○、印刷所○、個人で出す
「私家版」→出版コード✖️、印刷所○、個人で出す
「同人誌」→出版コード✖️、印刷所△、団体で出す

こういう違いみたいです。
最近は同人活動も個人でやってるし、印刷所経由の同人誌も増えたから、「私家版」と「同人誌」の区別が曖昧になってるんでしょうね。

ちなみに「上梓する」は

頼もしいgoogle先生

だそうです。
私は長く「出版社経由でないと使っちゃいけないんだろう」と思っていましたが、私家版でも言ってよいそうで、勉強になりました。
(新聞やチラシは適用外だそうで、フリーペーパーとかどうなるんだろう…)

3.何で「1ミリも知らない」のに「詩」なの?


ガワの話は結構しましたので、
中身の話に触れていきたいと思います。

「なんで詩なのか?」(1ミリも知らなかったのに)

これは「たまたま詩の教室に通っていたから」と言ってしまえばそこまでなんですが
意外と奥深い理由があります。

私が詩の教室に通い出したのが2020年。
本当に「1ミリも詩が理解できない」という状態で

「1ミリも詩が理解できない奴が文芸の編集やらイベントやってんのってどうなの?」

という動機からでした。

一応、一回も詩を書いた事が無いわけでもなくて
(学生の頃、ポエムみたいに書き殴ったやつとか)
教科書の詩とか(吉野弘とか)いいなぁぐらいには思っていて
まさに
「雰囲気で詩をやってる」
って感じ。

どうにかそこを脱したくて、歴史的観点から詩を勉強できる「冷泉詩話会」という詩の勉強会に通い出したのです。

これが本当に面白い。
先生は現役詩人にして大学講師の渡辺玄英先生。
大学講師をしているだけあって、歴史の授業っぽいのに面白いのです。

当時コロナやら何やらで体調を崩し、雑誌は休刊、イベントは休止になってしまい、死ぬほど落ち込んでいた私は、4年かけてどんどん「詩の勉強」にのめり込んでいったわけです。

4.詩を理解することと、詩が書けることは違う

「詩の勉強会」にのめり込んで2年すると
私はまた別の問題にブチ当たりました

そう

「詩は読めるけど、詩が書けない」

他人様の詩は「読める…読めるぞ…!」とムスカのごとく読めるようになったのですが(そうして盛大に誤読したりするのですが)
いざ、詩を書くとなると書けない。

私家版詩集を上梓した今だから言えるのですが

私は読めるようになっても、なお
「詩と詩人に強い幻想」を抱いていて
なんて言うか

「詩はきっと素晴らしいもののはずだ!」
「詩人は心の根底から詩が湧き上がってくる尊い人たちだ!」
「人の心をうつ美しい・尊い詩を『書かねばならない』んだ!」
みたいな事を考えていました。

これがね、読むのも書くのも邪魔をするというか
特に書くのを邪魔しましたね

5.詩は作者の気持ちを読むのではない


これは強く心に残っているのですが
今でも詩の読み合わせの時(他人様の詩を読む時)に「???」となる事があります。

だいたい、詩は意味が断裂していて
「意味」で読もうとするとチンプンカンプンになるんですよね。
「何言ってんだ?コイツ??」となる訳です。
(特に最近の現代詩はマジで分からん)

そうやって困っていると、必ず先生が

「『分からない』も一つの感想ですよ」

と、助け舟を出してくれるわけです

そして

「では、この詩は『ごきげんな詩』ですか?」
(いや、全然違う、辛気臭い詩やな…)

「『そうではない』と思った理由はなんですか?」
(そういえば、どこで辛気臭いなんて思ったんだろう…)

となるわけです。
そうすると、あら不思議。
「読めない」と思った詩がじょじょに見えてきます。
同時に、
例えば
「ホームセンターの自販機」とか
「夜の電波塔」とか
そういったものに私たちがどこか物悲しさを感じたり、不安になるのだという「気づき」を得る。

「詩は作者の心を読むのではない
自分に立ち返って気づきを得るものなんだ」

少なくとも私はそう悟ったのでした。

6.詩を書くとは、自分の中に「潜る」ことだ


続いて「書く」ということ。
これは(本当に)まだ未熟なので断言が難しいのですが、頑張って書きます!

私が「詩を書けた!」と思えたのは2022年の秋だったと思います。

その頃、私はひどいスランプで
詩の教室に通って2年も経つのに、詩が書けない(書いた手応えを得られない)事に悩みまくってました。

「私の詩って、何かすべってるよな」

「なんか上手い事言いたいんだけど、やり過ぎてるって言うか…すべってるよな」

考えても考えても駄作しかうまない。

ただのかっこつけでしかない。

悩んで悩んで悩んだ末に私が出した結論は

「もういい!綺麗事なんか抜きだ!このムシャクシャした気持ちを全部書き殴ってやる!」

というものでした。

その結果が私家版詩集「unbox/開けてはならない」の『宣言』になります。

この時のことは今もはっきり覚えていて
「この詩が否定されるなら、私はもう詩を書くのをやめる!」
とまで思っていました。

冷泉詩話会では、持ち寄った詩を朗読しなければならないのですが、めちゃくちゃプルプル震えながら読んだのを覚えています。笑

その結果、

ものすごく褒めてもらえたんですね。

厳しい時は厳しい先生が
「過去出した中で、一番の出来ですね」
と言ってくれて
他の生徒さんが
「この詩が発表される場に立ち会えて良かった」
と言ってくれたんです

もうシンプルに嬉しかったし
その時、ようやく
「あ、詩を書くってこういうことなんだ」
という、感覚的な悟りを得ました。

今思うのですが
詩は誰の心にも存在してると思うんですね
だけど生きていく中で
「意味」の世界を歩かなきゃいけない中で
どんどん押し沈めてしまっているんだと
私は感じます

私にとって「詩を書く」ことは
私の心の中に沈み
私の「詩」を表に出していくこと
「意味の限界を超える」ことなんだと思っています

7.私家版詩集「unbox/開けてはならない」に寄せて

中身は表紙通りだよ!

現在、
「どうか私の詩集読んでください!読んでくれるなら靴だって舐めます!」
という勢いで宣伝している私家版詩集「unbox/開けてはならない」ですが、
正直言って、
「暗い」「重い」「きつい」
内容になります。

私が創作の上で、長く押し黙っていた凄惨な心が描かれていて、気分の悪くなる方もいるかと思います。

私が長く「創作の場に出すべきではない(美しくない)」と思っていたものを「限りなく原型に近く」描き出すことができたと思います。

どうか読んだ方々に
書いてある「意味」を超えた何かをお届けできたら幸いです。

長くなりましたが

1ミリも詩が分からなかった私なりのお話でした。

皆様の創作人生が実りあるものになりますように

かしこ