いまのこと(必要最低限のモノだけで十分な日々)
ケープタウンに来て1ヶ月と1週間が過ぎた。
生活にもだいぶ慣れてきて、ある程度のルーティーンもできてきた。
近所のカフェの店員さんに、いつもココナッツミルクをカスタムする客と覚えてもらった。
最初は不安だった車の運転も、交通量が多いケープタウンの道に順応してきた気がする。この道がどの道につながるのかも分かってきた。
いま一番感じてることは、
ケープタウンに来てからの毎日がとてもシンプルで、とても充実していて、とても幸せだということ。
これは実際に現地に住んでみないと想像できないことだったし、自分の中の価値観が大きく変わっていっている気がしている最中。
別の記事でも書いているけれど、自分の夢である「最愛のパートナーと海外で暮らすこと」が現実になっているからってのもあるけれど、それだけではないことを感じている。
それは、日本にいた頃はたくさんのモノを持ち過ぎていていたなということ。
本当に必要なモノは実はごく少なくて、でもそれが手元にあればそれだけで満ち足りるんだなということ。
ヨガをしている方がいまこれを見ていたとしたら、いままさに「Santosha(サントーシャ)」を感じているんだと思う。
日本にいた頃
OLをしていた頃。特にコロナ前は、会社に着ていく洋服や靴をたくさん買っていた。これらは休みの日は絶対身に付けないものたち。仕事モードになる自分と、ゆったり休む自分を分けるために、洋服、靴、バッグなども分けていた。
春夏秋冬、各シーズンが変わるたびにルミネに行って新しいモノを買う。年齢の変化に合わせて購入するブランドも変化していき、単価も上がっていった。
去年流行っていたものは今年は着れない気がしてオンラインフリマで売ったり、処分していた。
会社用の靴は絶対ヒール。履きやすいパンプスやサンダルは、色違いで購入。
会社用のバッグは、自分の誕生日に買ったヴィトンのダミエ・アズールのトート。休み用のバッグは、お気に入りのCHANELのミニバッグと、ヴィンテージのヴィトンのスピーディー。
ブランドバッグは多くは持っていないけれど、ブランドバッグを身に着けていないと外出できない気さえしていた。
そして、毎日髪を巻いて、毎日メイクをして、平日は電車に揺られて会社へ、休日はヨガや買い物、待ち合わせ場所へ行く。
忙しく仕事をして、休みの日もみっちり予定を入れる。充実していて楽しい毎日だった。傍から見ても、充実しているっぽいアラサーだったと思う。
確かに充実はしていたんだけど、
でも、
正直、いつもどこかで違和感や何かが足りない感じがあった。
いくら充実した毎日でも、心のうちでは「本当の幸せ」を感じられていなかったんだと思う。当時はそれを認識したくなくて、深く考えていなかった。
いくらかわいい服を買って着ても、お気に入りの靴を履いても、ブランドのバッグを買っても、心の中で「本当の自分じゃない」気がしていた。
必要以上のものを身に着けている感覚。
too muchな気分。
でも、そうしないといけない気がしていた。
そうしないと、何かに受け入れてもらえないかんじ。
「私は、誰になりたいんだろう。」
特に東京という大都会にいると、そう想うときが多々あった。
ケープタウンに来てから
ケープタウンに来るため自分の家を引き払うときに、多くの洋服や靴などを整理した。必要なものだけを詰めて船便でケープタウンへ送り、日本に置いておくものは実家やストレージルームにある。
もうOL時代の洋服や靴はすべて処分した。何足もあったパンプスももうない。タイトなスカートや、高かったunited arrowsの色違いのジャケットも。持っていたモノの多くはいま流行りのモノや定番のモノだったから、オンラインフリマですぐに売れた。
ブランドのバッグはすべて日本に置いてきた。
CHANELのバッグくらい持ってこようか考えたが、持ってこなくて大正解だった。
なぜなら、高級ブランドを持っているということは、これを買えるだけのお金を持ってますよと言っているのと同じだから、ケープタウンの街中にいる浮浪者に向けて自ら「私お金あります」ということをアピールしていることになる。
そして、見た目で中国人に間違われることが99%で、アジア人=特に中国人はお金持ち、というふうに見られる。(と思っている。)
南アフリカで高級ブランド品を身に着けて出歩くなら完全に自己責任。襲われても守ってもらえないので、被害に遭ったら自業自得。
確かに、いわゆる富裕層がいる街中を歩いていても、明らかに高級ブランドだと分かるものを持っている人はいない。夫を経由して知り合ったこちらのマダムたちもみんな自分に合ったものを身につけていて、自分で作ったブローチをコートに付けたりしていてかわいい。
豊かな生活をしていそうな人ほど、明らかにブランド品とかを身につけていなくて、雰囲気としてその人自身に品がある。
ケープタウンには物乞いの浮浪者が多くいるが、BMWやベンツなどの高級車が交差点で停止すると真っ先に必ず寄っていくのをよく見かける。
この前、近所のカフェにラテを買いに行ったら、お店の中に物乞いの浮浪者が入ってきて、「ミルクだけで良いから買ってくれないか」と、レジに並んでいるお客さん全員に声をかけていた。
もちろん私にもやってきて、しつこくつきまとわれた。
日常的によくあることなのか店員は無視。
全員「I'm sorry」しか言わない。
結局、浮浪者はあきらめてどこかへ消えて行った。
日本では見かけなかった光景。
必要最低限のものが当たり前に手に入らない人もいる。
私はいま、そんな場所で暮らしている。
船便で持ってきた洋服や靴の中には、ケープタウンに馴染まないものも入っていた。お気に入りのブーツも、ニットはそもそも冬がそこまで寒くないから必要じゃないことが分かった。
“日本にいたら着るけど、ケープタウンにいるときは着なさそう。”
この違いは、きっと
「誰かに見られている自分」
を意識しているんじゃないかと思う。
ブランド要素や、トレンド要素。
このブランドを着ている人=イケてる人
トレンドに乗っている=イケてる人
みたいな。
日本にいると、なぜかブランドやトレンドを過剰に意識していた。
自分が自分のことをどう思うかより、他の人が自分をどう思うかをかなり気にしていた気がする。
自分軸で生きていたら、そんなことあまり気にしなくなるんだと思う。
これは以前の記事にも書いた内容にもつながる気がする。
ケープタウンに来てから分かったことだけど、たぶんこっちにはそもそもトレンドとか流行りがない。
若い子も、各々の自己表現をしていてかわいい。
デニムがハイライズなのかローライズなのか、スキニーなのかワイドなのか、みんな自分にあった形を履いている。その人に良い感じに馴染んでいる。
ケープタウンは、道が整備されていない。だから、ヒールを履いたら危ないし、すぐ足が痛くなりそう。大自然が共存するこの街では、スニーカーが一番フィットする。
秋冬はスウェットやフーディー、モコモコのアウターで足りる。春夏はTシャツやキャミにデニム、シンプルなワンピースで十分だし、それがフィットする。あとは、ルルレモンのヨガウェアと、同じくルルレモンで買ったボトムス2着あればそれだけで暮らせる。
いま、それらしか使っていないから、本当はそんなに多くのものはいらなかった。あとは、夫とレストランでディナーするとき用に少しおしゃれな洋服くらいだろうか。
たくさん持って来ちゃったなー....
いまケープタウンのクローゼットにある洋服と靴を見てそう思う。
本帰国するときに、自分は何を持って日本へ帰り、日本に置いているものの中で本当に必要なものは何になるのか。
日本に帰ったら、住む家から何もかも自分の身の丈にあった必要最低限な超シンプルな自分になるのかなと思うのと同時に、また以前の自分に戻りたくないけど、なぞの渦に飲み込まれてしまうかもしれないのかなとも思っている。
モノから本物の幸せは得られない
最低限のモノは必要だけれど、モノから本物の幸せは得られないことを、いまここに来て理解している最中。
あったとしても、きっとそれは表面上の幸福感で、深いところにある永遠のものではない。
ヨガのteacher trainingの哲学の時間で、先生が言っていた。
モノから幸せは得られないと。
モノに対する欲がなくなったとき、本物の幸せにつながると。
毎日家から見るきれいな日の出と、壮大なテーブルマウンテン。
ケープタウンの大自然がそばにあって、夫がいて、一緒にカフェに行っておいしいものを食べられて、健康で穏やかに過ごせればそれで良い。
流行っている洋服や、みんなが持っているブランドのバッグがなくたって、全然問題ない。
もっともっと大切なもの、価値あるものがここにはある。
必要最低限、シンプルがちょうど良い。
I’m satisfied.
私はすでにもう満ち足りているんだと、ケープタウンが教えてくれている気がしている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?