平日の夕方、役所のトイレで泣いてしまった
この文章は、ツムラ#OneMoreChoiceがnoteで開催する「 #我慢に代わる私の選択肢 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。
数年前にできたのであろう、白を基調とした清潔感たっぷりのトイレで、私は泣いていた。なるべく息が漏れないように、歯を食いしばり、顔を手で覆いながら涙が止むまでじっと耐える。めんどくさいヤツだと思われるだろうが、小学生の時からたまにトイレに閉じこもって泣いてきた。公の場で突然目頭がカッと熱くなったとき、私は我慢ができないのだ。だから誰にも見られない個室に駆け込んで、なんとかやりすごしてきた。学校や会社や駅のトイレで息を殺して泣いてきたが、役所で涙を流す日が来るとは思わなかった。
役所に来たのは、父の介護保険の申請手続きのためだった。
我が家は晩婚で、私は父が40代のときに生まれた子どもだ。母は私が8歳のときに他界。以来、父は朝6時には家を出て18時には最寄り駅に着く生活を送るようになった。帰宅するなり、夕食を準備して、洗濯もする。超がつくほど寡黙な父は、威張ることも、怒鳴ることもなく、仕事と育児を両立させていた。私は寡黙で温厚な父に甘えて大人になった。
社会人になってからの毎日は、終電で家に帰るほうが圧倒的に多く、四六時中「仕事」のことばかり考えていた。20代のうちに3回も転職をしたり、会社の立ち上げに参加したり、毎日が忙しかった。
仕事に余裕が出始めた20代後半になると、周りは同棲や結婚というライフステージに突入していたが、私が目の当たりにしたのは父の「老い」だった。思えば父は会社を辞めてから、朝から晩までテレビを見て過ごすようになり、外出する頻度は激減していた。掃除をしないので、家はすぐに汚れていく。それでも、私は自分の身の回りのことで精一杯で、父は父でしっかり生活していると思いこんでいた。幼い時から抱いてきた「父親像」に甘え見て見ぬ振りを続けていたのだ。
あるとき、その幻想がもろく崩れた。部屋に殺虫剤をまくために、父へ「薬剤を撒く少しの間、外出してきてほしい」と申し出ると、何をどう説明しても「嫌だ」の一点張りで埒が明かなくなった。「体に悪いから家にいると危ない」という話をしても、聞く耳を持たない。話の通じなさに私も苛立ち、しまいには口論になってしまった。
なぜ父は頑なに外に出たがらないのか?
「父親フィルター」をとって冷静に父を見ると、繊維が死んだ服を着て、しばらくハサミをいれていない頭髪は清潔感が皆無だった。新しい服を見繕おうとしても「もう(自分の人生が)長くないから、いらない」と頑なに拒否。そんな姿を目の当たりにすると、「セルフネグレクト」という言葉が頭に浮かぶ。セルフネグレクトとは「自己放任」という意味で、自分自身の生活への意欲や関心がなくなった結果、健康や安全を失ってしまうことを指す。「未来」がないと思っているから、何もやりたくないのだ。
散らかった部屋の中に座る父を見て、私はようやく「老い」と向き合うことにした。
まず、父に孤独死について書かれた本を贈った。本に書かれているのは「限界」を迎えた人たちについてだが、孤独死は他人事ではない。「ふつうの人」がセルフネグレクトに陥ったり、社会から孤立してしまったりして、孤独死してしまう。父に自分の状況が、孤独死に向かっていることを理解してもらいたかった。この狙いは当たったようで、久しぶりに本を読む父の姿を拝めた。
次は、コロナ禍でできた時間を使って、実家の整理に着手した。かつて父・母・姉・私の家族4人で生活していた家には「もう使っていないモノ」が多すぎる。「まだ使える」「もったいない」と思いがちだが、モノは経年劣化してゴミとなる。
まとめられるゴミは45Lの袋に詰めて毎週8〜10袋捨て、家具は粗大ごみで少しずつ処分した。タンス3つ、L字型ソファ、椅子5脚、障子、母の鏡台、布団、2段ベッド、電気ポットが3つ、CDプレイヤー2つにビデオデッキ、扇風機2つ、母親の衣服……。モノを捨てる行為は想像以上にお金と労力がかかるうえ、精神が摩耗することを知った。「家族の思い出」を自ら焼却していくような気持ちになるのだ。
その間、父はずっとビールを飲みながらテレビを見ていた。手伝うどころか、父は私がゴミを捨てることを嫌がり、たびたび口論になった。一番激高したときは「お前は夜叉だ」と怒鳴られた。私は「猛悪な鬼神」らしい。さすがにその瞬間は体に力が入らなくなり、へなへなと床に腰を落とした。
今、父を動かしているのは論理ではなく感情なのだ。そう言い聞かせるしかなかった。10年前に結婚して家を出た姉に相談するも「忙しいから無理」とのことで、取り付く島もなかった。
仕事が終わると家の片付けをして、早朝にゴミを出し続ける。こうした毎日を続けているうちに、夜になると湿疹が出るようになっていた。最初は食あたりやアレルギーを疑い、病院に行くものの原因はよくわからなかった。我関せずの父と姉へ苛立ちが募ったのか、寝言で「ひどい!」と叫んだ声で目を覚ましたこともあった。これまでもいろんなストレスを経験してきたことはあるが、自分の寝言で飛び起きる経験は初めてだった。
一方で、父はだんだん片付いていく家に満足し始めたのか、一歩も譲らない私に諦めがついたのか、次第に口論も減っていった。すべて処分するのに半年の歳月と20万円をかけ、断捨離をほぼ完了させた。いっそのこと業者に頼んだほうが楽だったかもしれないが、時間をかけることで父の感情に変化があったと信じたい。
次に着手したのが、介護保険の申請だった。介護保険は自治体による社会支援制度で、介護が必要になった時に所定の介護サービスが受けられる制度だ。介護と聞くと「介護施設」や「ヘルパーによる介助」などを思い浮かべてしまい、当初は遠い未来の話だと思っていた。父は持病があるとはいえ一人で生活ができるレベルだったし、父自身も「介護はねぇ…」と気が進まない様子だったので、家事代行業者の資料を集め、契約を検討していたぐらいだ。
ところが、調べてみると「介護保険」を使えば「家の掃除」や「訪問」など、ライトなサービスも受けられるらしい。しかも、介護サービスが受けられる1番軽いレベル(要支援1)は以下の人が対象だという。
食事や排泄などはほとんどひとりでできるが、立ち上がりや片足での立位保持などの動作に何らかの支えを必要とすることがある。入浴や掃除など、日常生活の一部に見守りや手助けが必要な場合がある。
我が家に必要なのは「父の生存確認(最低限の会話)」と「軽い掃除」だったので介護保険で十分だった。誰か他人が定期的に家にやってくることで、ひとり暮らしに張り合いが出るだろう。費用も民間サービスに比べて格段に安い。
一点、気にかかることは「認定」があることだった。家に担当者が訪問して当人が対象者であるかを認定を得てから、はじめてサービスが受けられる。父は相変わらずテレビを一日中見ているし、介護が必要だとは思っていない。私がやるしかない。「やってもらう側」から「やる側」になっただけ。それが「老い」と向き合うことなのだ。
仕事の合間に役所へ行き、手続きを進めることにした。窓口で担当者と話をしていると、ふいに「がんばってますね」と言われた。
え?
豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたのか、担当者は「よく調べてますし、大変だったでしょう」と続けた。
その瞬間、眼球を支える筋肉がプツンと切れ、目がカッと熱くなった。涙腺が決壊したようだ。まずい。理性的な自分が、急いで涙腺に蓋をしようと慌てふためいているのがわかった。私は介護保険の手続きを進めに来たのだから、今泣いたらダメなのだ。閉庁時間だって迫ってる。
ギリギリの状態で涙を堰き止め、なんとか手続きを終えた。声が震えているのがわかったが、及第点ということにしよう。
窓口を後にして、急いでトイレに駆け込んだ。個室のドアに鍵を閉めた瞬間、涙がドボドボ溢れた落ちた。
これまで、頑張っていると思ったことがなかった。むしろ、父と口論になるたびにキツい言葉を投げてしまう自分に嫌気がしていたし、「父の老いを、見て見ぬふりをしていた」ため罪悪感が強かった。本格的に介護をしている人からすると、自分の状況は気楽なものだという自覚もあった。
要は、自分の行動が「頑張り」に値するものだと思っていなかったのだ。役所でふいにかけられた言葉で、私はようやく自分の状況を理解した。
私はつらかった。そして頑張っていた。
涙が止むと、肩の荷が降りたかのような気持ちになった。
父は無事「要支援1」となり、今では週に1度の掃除サービスを受けている。父は新しい服を着てくれるようになったし、私は高齢者がうけるべき福祉サービスを把握できるようになった。もちろん、今でも度々口論になるものの、困ったら相談できる窓口があることを知っていれば、気持ちに余裕が生まれる。
この手の話をすると、「1人で抱え込まないで」というアドバイスが思い浮かぶが、「人様に迷惑をかけている」という自己認識がデフォルトで設定されている人間には、効力を発揮しない。「つらくなったら誰かに助けを求めたほうがいい」ことはわかっていても、自分が「つらい状況」だと認識していなければ、その発想がわかないのだ。
振り返れば、適応障害で休職した際も、なかなか助けを求められなかったのを思い出す。友だちにも愚痴を言ってたし、相談もしていたし、なんならTwitterに日々の苦難を書き綴っており、ガス抜きができていると思っていた。けれども、ギリギリの状態になるまで、産業医面談を設定したり、心療内科に行ったりという具体的な行動には出られなかった。「つらさ」に自信がもてなかったのだ。「もっとつらい人がいるのに」とか「迷惑をかけているのに」という考えは、無意識的で強制力がある。
いつ自分が「つらさに蓋をしてしまう」かわからない。そんなときのために、自分にむけてアドバイスを残しておこう。つらいという感情は、誰かと比較できない。私がつらいと思ったら、それがすべてなのだ。
身近な人に相談するのも手段ではあるけれど、「迷惑をかけたくない」という気持ちもわく。そういうときこそ、自分とは全然関係ない自治体や組織の門を叩いてみると思いのほか、解決の糸口が見つかる。
1人で何とかできる問題は、意外と少ない。そうでなければ、この広大な社会は回らないはずだ。
Top Image:starmix via Adobe Stock
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