7/6視聴:「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」
こんにちは。
6/21に公開したポール・ジアマッティさん、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフさん、ドミニク・セッサさん主演の映画「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」について感想や考えたことを書きたいと思います。
ネタバレ全開で書きたいと思うので作品を見られていない方は自己責任で先に進むようにしてください。
noteの当初の目的が自分向けの日記の意味合いが強かったので、そこまで読んでもらいたいという思いは強くなかったですが、本作が本当に素晴らしい作品だったので1人でも多くの方に読んでもらい、映画を観たいであったり、共感だったりをしてもらえたら嬉しいです。
【感想】
個人的な賛否ですが「賛」でした。
何なら今年見た映画の中で一番好きでした。
僕は本作を通して、監督のアレクサンダー・ペインさんは「人生は鶏小屋に置かれた梯子みたいなもので、短くて、クソに塗れている。でも(だからこそ)過去を学び、今を見つめて、人生に価値を与える生き方を選んでいく必要がある」という事を伝えたかったように感じました。
「人生は鶏小屋に置かれた梯子みたいなもので、短くて、クソに塗れている」という言葉はまさに劇中で、ポール・ジアマッティさん演じるハナム先生が、金持ちの息子で無自覚のうちに自分の社会階層の特権を内面化している「クソガキ」生徒が、息子を戦争で亡くし、悲しみの渦中にあったダヴァイン・ジョイ・ランドルフさん演じるメアリーに対して心ない発言をした時に怒りを露わにして発した言葉になります。
アレクサンダー・ペインさんは本作でWASP階級のマッチョイズムを内面化した男子の再生産機関として機能している寄宿制の男子校の価値観に対して、本当の人生の価値はお金や地位、学歴ではなく、もっと人間の普遍的な営みの中に宿るということをハナム先生やメアリー、アンガスを通して伝えようとしていたように思います。
本作でメインとして描かれるポール・ジアマッティさん演じるハナム先生、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフさん演じるメアリー、ドミニク・セッサさん演じる生徒のアンガスはみんな何かしら人生に欠陥を抱え、社会に対して生きづらさを感じています。
本来なら交わることのなかった3人が期せずして2週間という長いようで短いホリディ休暇を一緒に過ごす事になり、分かりあうことは出来なくてもお互いから刺激を受け、もがきながら成長していく姿がとても綺麗でした。
クリスマスが含んでいる意味として「誰かのために何かをしてあげたくなる特別な日」やハナム先生が冒頭に引用したキケロの「人は誰かのために生まれてきた」という言葉を体現した作品だったと思います。
それぞれもがきながらも互いのために行動することで3人が自分の欠陥を乗り越えることは出来なくとも、傷(=過去)と向き合い、今を見つめ直すことで新たな未来に踏み出していく姿に涙が堪えられませんでした。
特にアンガスとハナム先生がお互いの境遇や抱えている生きづらさを分かった上で、アンガスを守るために、ハナム先生が学校を去ることになった際にアンガスに伝えるセリフを聞いて胸がいっぱいになりました。
「頑張るんだぞ。君は大丈夫だ」というとてもシンプルなセリフでしたがそこには今までハナム先生がアンガスに伝えてきたたくさんの言葉、伝えたくても伝えられなかった言葉がたくさん詰まっていました。
また、アンガスを守るために今までバーナード校に固執していたハナム先生が学校を去る決断をする際の決心の表情がポール・ジアマッティさんの演技の奥深さ、凄さを物語っていました。
次に、メタ的な話になってしまいますが、本作の撮影手法や編集技術が僕の性癖にドストライクでした。
ちょっと懐かしさを感じさせる撮影手法や、編集手法を使った、レトロな映像と描写がとてもよかったです。
フィルムで撮影したような画質(100%デジタル撮影らしいです)や完璧に再現された70年台のルック、70年台の映画を見ているようなちょっと懐かしいカメラワークで、映画の中の時代に撮影された作品のリバイバル上映を見ているのではと錯覚させられるような哀愁と懐かしさに包まれていました。
その他にも細かい描写でいうと、ホリディムービーによくある讃美歌と共に始まるオープニングや、アンガスを探すためにハナム先生がアンガスの名前を叫ぶシーンで、ハナム先生の寄りからカメラがどんどんアウトしていく描写がちょっと懐かしいコメディ映画感があって好きでした。
何か仰々しいことが起きるわけではない本作ですが、ほっこり胸が温かくなる大切な瞬間が詰まった作品だったと思います。
今年のホリディシーズンに改めて見返したくなる一作となっています。
【解釈・映画評】
本作は1970年台のアメリカが舞台となっていますが、社会階層による格差や、エコー・チェンバーのような今に通じる問題を数多く取り上げていました。
ハナム先生が作中で「歴史を学ぶことの意義は過去に何が起きたのかを知ることではなく、過去を通して今を見つめること」と語っています。
まさに本作は1970年台のアメリカという過去を舞台として描くことで、今起きている移民の問題や、社会階層による分断など現代に通じる社会問題を再度見つめ直すことの意義をメタ的かつ、アイロニックに唱えていたように感じました。
・歴史を学ぶ意義
本作、様々な箇所でとても胸を打つ名言が出てきます。漫画なら片側ページの6割以上使えるような名言が150分の作品の中でたくさん出てきます。
ただ、かなり多くの言葉が見せ場のようなシーンではなく、The日常のようなシーンでしれっと出てきます。
見せ場のようなシーンでももちろんハナム先生は本当に伝えたいことを熱を籠めて伝えてくれます。
ただ、アンガスとの日常の掛け合いのような場面でしれっとハナム先生が語る言葉たちにこそ本当にこの映画を通して、アレクサンダー・ペインさんが伝えたいメッセージが詰まっていると感じました。
本当に好きな言葉が多くありましたが、その中でも「崇高なものから醜悪なものまで、人間が抱くありとあらゆる衝動と欲望は全てこの部屋に詰まってる。歴史を学ぶということは単に過去を知ることではなく、今を見つめ直すことになる」という言葉は特に胸に突き刺さるものがありました。
この言葉はアンガスと共にボストンの美術館に行った際に、古代の文明に対して興味を持てずにいたアンガスに対して放った言葉(授業)になります。
上の方でも書きましたが、この作品は現実と折り合いがつけられず、生きにくさを感じる3人が直接的な救いを得られることはなくとも、自分の傷(=過去)と向き合い、今の自分の状況を見つめ直すことで新たな未来に目を向けていく物語になります。
まさに三者三様にハナム先生が語る歴史を学ぶ意義を実践していくわけです。
学校が提示するマッチョイズムな価値観を内面化しているWASP階級の典型として描かれていたクソガキ生徒の代表格のクンツが学校を去るハナム先生を見ながらアンガスに対して「あいつは過去になったんだ」とハナム先生をバカにしながら言ってきます。
ここにハナム先生と2週間を共に過ごしたアンガスと勉強は二の次でバカンスを堪能したクンツの成熟度の違いが表れています。
クンツにとって過去とはまさに、過ぎ去ったものであり、目を向ける必要がないものです。しかし2週間ハナム先生と共に過ごし、歴史の意義を知ったアンガスにとって、あの瞬間こそ本当にハナム先生が彼のロール・モデルであり、今を見つめ直すためのマイルストーンになった瞬間だったように感じました。
・ハナム先生が伝えたかったこと
本作は他者を蹴落とし、より高い地位につくことが正義であり、お金や学歴、社会的地位のような即物的なステータスを人生の価値の指標としたマッチョイズムな(WASPのステレオタイプ的な)価値観を内面化した人間の再生産機関として機能している寄宿制の男子校が舞台となっています。
日本の教育機関に言えることでもありますが、学校も一種のビジネスです。一般商材を扱う企業とは異なり学校という経営システムは収入が限られているため、寄付や献金で賄われてる部分が多いし、持続的な教育サービスを提供するためには切っても切れない関係にあるので、寄付や献金を否定することはできません(それが教育格差に繋がっていることは否めませんが...)。
しかし本作の舞台となっている学校の校長は多額の献金をしている親の子どもを落第させるなんてもっての外で、成績が悪かったとしても親の経済ステータス次第では成績を捻じ曲げることもやぶさかでないという価値観の持ち主でした。
そのため、ハナム先生は議員の息子を落第させたことが原因でホリディ休暇に親元に帰らない(れない)生徒の面倒を見るという役回りを押し付けられてしまいます。
校長がハナム先生を呼びつけ、「より多く献金をもらってるんだから相応のサービスを提供する必要があるだろ」という言葉に対して「真っ当な教育を提供している」と返す部分が個人的にめちゃくちゃ好きでした。
何ならハナム先生は学校を去ることが決まった際に校長に対して「ずっと前から君は陰茎ガンみたいな奴だと思ってた」(=マッチョイズムの悪い部分を煮詰めたようなやつ)と言い放っていきます(笑)。
このように本作の舞台となっている学校は教育機関という体をとっていながら実態としては名門校出という泊をつけさせるため、また地位やお金、経歴というステータスを人生の価値とする(WASPのステレオタイプ的な)価値観を再生産させるためのシステムとなっていました。
ハナム先生はそのような一元的な価値観の再生産システムの一部でありながら、そのような価値観に従属するのではなく、真っ当な教育を生徒たちに与えることでただただトップダウンで提供される価値観に流されるのではなく、自分の頭で人生の価値を考えられる大人になってもらいたいという願いがそこにはあったように思います。
そしてその人生の価値というのはまさに、上でも引用したボストン美術館での「崇高なものから醜悪なものまで、人間が抱くありとあらゆる衝動と欲望は全てこの部屋に詰まってる。歴史を学ぶということは単に過去を知ることではなく、今を見つめ直すことになる」という言葉であり、人生の価値というものは個人の欲望に終着しない、より普遍的なものである=他人のことを思いやり、自分のことよりも他人のことを優先して行動することの大切さであるという本作のテーマだったように思います。
確かにハナム先生にはバートン校を卒業した後に進学をしたハーバード大で卒論の盗作を巡ったトラブルで、相手の父親が学校に多額の献金をしているということを盾にして、非を被ることになった結果、退学をさせられてしまうという過去を持っています。
また、ハナム先生が生徒を「何も苦労していない」と語ることで、メアリーに「それは偏見じゃないのか」と説き伏せられたり、「金持ちと愚かさはバートンの黄金パートナー」と語っているところから、親に恵まれ、バートン校の中で正義とされる価値観を内面化している生徒たちを愚か者のバカと見下している描写もあります。
ハナム先生の過去の経緯と普段の発言から生徒が感じ取る意地の悪さみたいなものが彼のパーソナリティと結びついていることは否定できません。ただ生徒が彼から感じる意地の悪さの全部が全部彼のパーソナリティと直結してるとは思えませんでした。
アンガスからあなたはみんなから嫌われてると言われた時の何とも言えない表情。別に嫌われたくてそういう風な言動をしているわけではないという表情が彼の生きづらさを表していたように思います。
・ベトナム戦争
本作では社会階層による格差や、アンガスの苦悩の影にベトナム戦争が大きな意味を与えられていました。
本作のメインの登場人物の1人、住み込みで働く給餌長のメアリーは息子をベトナム戦争で亡くしています。
彼女は経済格差や貧困のスパイラルから息子にはどうにか抜け出てもらいたいという思いから、バートン校に住み込みで働き、息子をバートン校に通わせることでエリート教育を受けさせようと必死に努力をしてきた人でした。
しかし彼女の息子カーティスは戦争で亡くなってしまいます。
カーティスの同級生は皆が皆、経済的に裕福で相対的に社会階層が高い地位にいる人物たちなので徴兵を延期することができ、戦地に赴くことはありませんでした。
そんな中、経済的に大学に通うことができないカーティスは戦争から無事に帰ることができれば、帰還兵のための支援制度で大学に通えるという理由で戦地に赴いていきます。
ここに現代にも通ずる、社会階層による格差と教育の機会の不平等さの現実を垣間見てとても胸が痛くなりました。
まさにこれは今のアメリカでも(日本でも)起こっていることであり、戦争に行くことはなくとも定着した社会階層の格差から抜け出ることの困難さと階層の再生産構造の地獄を描写しているように思いました。
メアリーが夜中にハナム先生に語る「バカで愚かなクソガキが温かい食事に恵まれ、温かいベッドの中で寝ているのに、なぜ私の息子は冷たい土の中で眠っているのか」というセリフは本作が伝えようとしている「人生の価値とは?」というテーマを引き出すと同時に「今の社会のあり方は本当に正しいものだと思いますか?過去を通してあなたは今の社会をどう見ますか?」というアレクサンダー・ペインさんからの問題提起が含まれているように感じました。
もう一つベトナム戦争が大きな意味を果たしている箇所としてアンガスの内的葛藤が挙げられるかと思います。
アンガスはすでに学校を2つ退学になっており、バートン校がダメなら陸軍学校に送ると両親から告げられていました。
戦時中のアメリカで陸軍学校に送られるということは場合によっては戦地に赴くことを意味します。それこそアンガスにバートン校でうまくできるかどうかは生死を分つ綱渡りのような日々なのです。
またアンガスにはもう一つ恐怖の種があります。それは実の父です。
アンガスの父は統合失調症と認知症を患いアンガスや母親に暴力を振るうようになってしまったことで精神病棟に入院させられてしまいます。
アンガスがいつの時点からカウンセリングに通い出したのか、うつ病の薬を飲むようになったのかは語られませんが、彼は常に自分も父のようになってしまうのではないかという恐怖を抱えていました。
バートン校が善とするWASP階層のステレオタイプ的な他人を蹴落とし、富を築き上げることが価値のある人生だという価値観を素直に享受することができない、マッチョイズムに順応することができないアンガスにとってバートン校での日常はとてもストレスフルなものだったことが見て取れます。
ハナム先生との会話の中で「もっと他人に思いやりを持つことはできないのか。君たちは名門校に通っているというだけで、社会的な特権に与っているんだぞ」と言われた際にアンガスは「カーティス(メアリーの息子)以外はね」と答えています。
カーティスは社会階層による格差が原因で戦地に赴くことになりますが、アンガスにとってもベトナム戦争は常に影となって付き纏ってくるものであり、バートン校という枠組みから外れたら、自分もその影に呑み込まれてしまうという恐怖の対象だったように思えます。
【最後に】
本作、本当に素晴らしく、書きたいことが多すぎて全然文章がまとまっていない部分だらけのような気がします。
現代の日本でもタワマンが富の象徴であり、港区女子という言葉が持て囃されるように、ブランドもので着飾って、タワマンに住み、クラブで高級シャンパンを開けることがステータスであり、それを周りに見せつけることを人生の価値とする風潮が強くなっているように感じます。
僕も前々からそのような風潮に忌避感と危機感を抱えていました。
本作は言葉にできなかった現代の日本の風潮に感じている僕の忌避感や危機感といったネガティブな感情に血肉を与えてくれた作品でした。
僕自身何かを学ぶことがとても好きで休日は色んな勉強に時間を充てるようにしています。
ただ僕の職種がIT系の技術職なので文学や歴史の勉強を休日にしているなどと言うと、結構冷たく、「それってなんの役に立つの?」という感じであしらわれてしまうことがありました。
ただ、即物的なものを絶対視し、歴史や文学など直接的な富を生み出さない教育や学びを軽視する社会は確実に衰退の一途を辿ります。
本作はまさに僕の中にあった違和感がどう言うものなのかを説明し、その違和感の正体と「じゃああなたはどのように生きますか?」という新たな問いを提示してくれる本当に素晴らしい作品でした。
本当にこの作品を見てもらいたいマッチョイズムを内面化している層にこそ届かないのがめちゃくちゃ悔やまれます。
ハナム先生は社会を「今の世界は金持ちは素知らぬ顔、割を食うのは貧しい子どもたち、高潔さはジョークの種でしかないそんな世の中だ」という風に見ていました。
まさに自分たちの富を増やすことに精一杯で他者を思いやることを忘れてしまっている世の中で、ウクライナに対するロシアの侵攻やイスラエルによるパレスチナ包囲、日本国内でも改正難民法によって難民たちを合法的に強制送還することが可能になってしまっている現実に少しでも目を向けられる人が増えたらこの世界も多少はマシな世界になっていくんじゃないかと思います。
想定の2倍以上の分量になってしまいましたが、もし最後まで読んでいただけてたら嬉しいです。
本作は本当にほっこりし、笑いもあって、でもとても大切なメッセージを届けてくれる最高の作品でした。
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