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不完全さを愛する。自分のも、ひとのも。

社会人3年目の大晦日です。
私は毎年、その年の目標を決めてたりします。
ただ「今年の目標は何にしようか」と考えて決めるというより、「毎年何かしら目標があった方がいいよなぁ」と頭の片隅においておくと、ふいっ!と頭に浮かぶ言葉がある。

浮かぶタイミングは春だったり夏だったりするのだけど、決めるために決めた目標よりも、こうしてやってきた言葉の方がなんだかしっくりくる。そんな感じで目標を決めてます。

そして今年はずっとそれがないまま冬になり、つい先日28日にそれがやってきました。今年の目標にするには遅すぎるのだけど、ただ、1年目2年目の目標も継続目標としてずっと自分の中に掲げ続けているものなので、2018年に立てた目標、ということで掲げておこうと思います。4年目の目標は4年目に立てるとします。

さてさて、前置きが長くなったけど、その28日に浮かんだのが『不完全さを愛する。自分のも、ひとのも。』です。
これは不完全さを受け入れよう、受け止めよう、みたいな話とは、また別のはなし。

『不完全さを愛する』はもっと、積極的な感覚があります。
不完全であるとは、なんて美しいんだろう!くらいの気持ちです。不完全であるからこそ美しい、ともいえるかも。

うまくいかないことや、力不足な自分と今まで以上に一緒に過ごした1年でした。
もっと楽な生き方もいくらでもあったはずなのに、なんでこんな生き方を選んだんだろう、と思うこともある。そりゃね。

でもそういう感覚にすでに名前をつけている先人がいることを知ると、なんだか心強いというか、励まされるというか。

自分の中にある得も言われぬナニカを、言葉にして捉えた気になるでもなく、わからないからと見えないふりをするでもなく。
確かにあるが、ナニかはわからないものとして付き合っていきたい。そのなかで一部、わかることもあれば、さらなるわからなさが生まれることもある。

そうした得体のしれない、不完全さいを愛したいと思います。
自分のも、ひとのも。


今日の朝から『毎朝一服』習慣をはじめました。
なんだか知らないけれど、気分良く1日が始まる気がします。

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