自分の人生の主語は自分である
誰かと一緒に生きるとは逆説的に自分の人生の主語を自分にすることだと思います。
わたしが「自分の人生の主語を自分」にできたのは就活の時です。
彼氏の勤務地が東京だから
親が大企業での就職を望んでいるから
周りの人はわたしに何を望んでいるのか。どういう決断をしたら喜んでくれるのか。そういうことをだらだら考えて、悩みました。
でも結局、この決断の先の人生を他でもない、自分が生きていかなければいけない。そう思った瞬間、主語は自分だ。という言葉が出てきました。
人生の決断など大きなことではない、もっと日常でもいろいろな場面でもいえることです。
例えばアイドルに例えると、AKB48の総選挙で誰かを応援するとき、「あの子のために」「ファンのみなさんのために」と自分の考えや人生を誰かに預けてしまうと、その関係は不健康なものになっていくと思います。
「誰かのために」を続けていくと、いつか「あなたのためにこれだけ応援してきた”のに”」「こんなに我慢してアイドルをやってきた”のに”」と相手を責めてしまいかねません。
それは親子や夫婦でも同じです。わたしが相手の”ために”料理を毎日作っていたとしたら、やがて「あなたのために、料理を毎日してきた”のに”」という気持ちが出てきてしまいます。
そういう時に、自分の行動の主語を自分にすることが大切ではないかと思います。「あなたを大切に想っていることを表すために、料理をつくった」になると、もし何か裏切られることがあっても、自分の気持ちでやったこと”だから”そこで気持ちがねじれないです。
みんな誰かと関わり合ながら生きていく。その中で誰かに傾倒してしまうこともあるけれど、誰かと一緒に生きるとは逆説的に自分の人生の主語を自分にすること。
「自分の人生の主語は自分である」