見守りほど難しい支援はない
こんにちはこんばんわOKUです。今回は、「見守りほど難しい支援はない」というお話をします。
引きこもりの発達障害者の親御さんや放課後デイなどで知的障害者の支援をされている職員の方から相談を受けていて、見守りを理解されていない方が多いと感じています。
「見守り」は、最も難しい支援だと聞いた時点で、すでに「うん?」とひっかかってしまう方もいるんじゃないでしょうか。
一見、何もしなくていいように映ったり、してあげないといけないことがあるのに何もしないでいるのは手抜きだという風に捉えている方が多くいます。ただ見守っていることに罪悪感を持たれている人もいます。だけど、実際は、最も難しい支援なんです。
なぜなら、見守りは、相手を全面的に信頼しなければならないからです。実際のところ、人を信じきるって意外とできないものです。どんなに親しい間柄でも、身内だとしてもです。
親としては、自分の不安もあるし、子を大切に想うほどに心配も大きくなります。それにもまして信頼することができなければ、本当の意味で見守るということは出来ません。信頼しながら、あえて手を出さずにチラ見しながら気に掛けている状態、って感じでしょうか。
親御さんとお話していたりすると、見放すことと見守ることを区別できてない方が多いです。このふたつは違います。
見守るのは信頼することですが、見放すことは責任放棄です。
ここから大事で、右往左往している親御さんに、「お子さんを信頼して見守ることも大切ですよ」と伝えると、「じゃあ放っておけばいいんですか?それで大丈夫ですか?」みたいな返しがよくきます。
その答えは、はいの時もあれば、いいえの時もあります。僕にはわかりません。もしも、本人が放っておくことを望んでいるのであれば、その時放っておくことは見守りになります。これは見放したことにはなりません。常にチラ見はしているわけですから。
僕が言いたいのは、「本人が何を望んでいるかを見極めないといけませんよ?もしかしたら今は放っておいてもらいたいタイミングなのかもしれませんよ?」ということなんですね。答えはいつも本人だけが持っているので、僕にもあなたにもわかりません。
そういう意味では、親御さんが右往左往をしていること自体は間違いではないです。わからないんだからいろいろ試すしかない。ただそれが、今のところは、本人が望んでいることとはズレていますよということなんですね。
親は、自分が何とかしてあげたいとか、自分が望むように元気な姿になってほしいという思いを行動や言動にのっけてしまいますが、親が望んでいるとか、思いが伝わるとか、いまどうしようもなく困ってて苦しい思いをしている本人にとってはどうでもいいことなんです。
大事なのは、本人が何を望んでいるかです。長く引きこもっていると、もはや自分でも自分が何を望んでいるのかわからなくなっているかもしれません。苦しいと思います。そういう時はまず安心して安全に生活ができないといけませんから、まず見守ってあげることが重要になります。
反応も変化も求めず、ただ思いが届いていることを願って待つ覚悟を決める。信じ切る。温かく見守るぐらいが適切な時があります。もしかすると、必要なのは、我が子を信頼するという親御さんの覚悟なのかもしれません。
最後に。
最近お話した方で、すごく思いの強いお母さんがいて、何年も引きこもっている息子が部屋から出てきたら、抱きしめてあげたいです!っておっしゃっていて、本人が望むならそうしたらいいし、実際そういうときが来たらいいですね、とさらっと返したんですが、もちろん抱きしめてあげられたらいいなと本音で思うと同時に、見守りというのは体に触れずに抱きしめることだということもご理解いただきたいと思ったので、ぜひ似たような境遇の方にも、そう捉えていただけたらと思います。
見守りとは、“体に触れずに抱きしめること”なんです。