奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓② 浪花節芸妓の流行
前回の①に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。②では大正前期の東岡町について書こうと思う。
大正前期における芸妓の隆盛
明治期の主な遊客は政財界の高等官や富裕な商人だったことは①で述べた。そう、まだ明治期において花街や遊廓で遊興するのは富裕層のみに限られていたのである。よって芸娼妓の数も少なく、明治20年(1887)奈良県内の娼妓数は183名で芸妓は31人しかいなかった。
しかし、明治後期〜大正期には第一次世界大戦時の好景気の影響もあってか花街や遊廓の遊興は大衆化する。すなわち、富裕層のみならず労働者階級も遊興するようになったのである。このため全国的にも遊興の場である公認遊廓(指定地)が増加、これによって貸座敷数、芸娼妓数も激増することになった。明治44年には、奈良県内の娼妓数が412人(M20比2.25倍)、芸妓が293人(M20年比9.45倍)に達している。
また大正後期にはいわゆる「大正芸妓」と呼ばれる芸妓が増えた。これは「不見転《みずてん》芸妓」ともいわれ、すなわち純粋に芸を売る芸妓ではなく、(違法に)性売買を行う芸妓のことを指す。
①では「舞さらえ」を行う芸達者な芸妓が東岡町の衰退を救い、明治後期にはアイドル的存在になっていたと書いた。このように他所の芸者街(花街)も芸達者な芸妓が多く存在した。しかし、これが大正期には芸妓の大衆化によって芸がなくても違法であっても、性売買を行えば「売れっ妓」になれたのである。逆にいうと芸事の良し悪しがわかる客層ではなくなり、芸妓に芸事は必要なくなったとも考えられる。
東岡町の浪花節ガールズ登場
そのような流れの中、東岡町では明治後期に「浪花節芸妓」というグループが結成された。私も詳しくないのだが浪花節とは以下のようなものである。
また浪花節の流行については、以下のような記述がある。
このように全国的な浪花節の流行に乗って、東岡町に現在でいうところの「浪花節ガールズ」というようなアイドルグループが誕生したのだった。これは①で書いた京咲楼の女将である鳥飼サキの先見の明によるものであったと考えられる。
「浪花節芸妓」の座長だった栄菊は、当時一世風靡した吉田奈良丸の流れを汲む芸妓であり、その美しい容貌で大変人気があったようである。
彼女たちは「郡山に浪花節芸妓あり」とその名声を高め、名古屋、東京の一流の寄席にまで興行に赴いた。そのうちの一人が、このページの見出し写真に用いた「小縫」で、興行時の貴重な写真である。また未確認であるが同時期、「清酒白鹿」のポスターのモデルになった浪花節芸妓もいたという。
このような東岡町芸妓の活躍によって当時の世人から「郡山を代表するもの、金魚、御殿桜、浪花節芸妓」と言われたほどであった(『郡山町史』「附、この町のあれこれ」より)。
東岡町芸妓の人気ぶり
このようにして明治後期に若干の変動はあったものの、大正期にはいってからの東岡町の座敷数は6軒で落ち着き、娼妓数は5人足らずで、下の新聞記事に掲載されているように、芸妓は50人以上という状況であった。
大正2年(1913)元旦の新聞紙上には「丑年の芸妓」として、奈良の元林院や木辻の芸妓衆をおさえ、東岡町の芸妓が5名紹介されている。このことからもその人気ぶりが窺えるだろう。
また大正3年(1914)6月の新聞記事には「高等官連の昼帰り」というものがあり、当時の県庁職員の中には近くの元林院で遊ばず、わざわざ東岡町まで足を延ばす者が多かったことがわかる。人気の芸妓による「浪花節」を聞くためにおそらく通っていたのだろう。
京咲楼女将の死と大阪電気軌道の開通
このように東岡町の芸妓がもてはやされていた大正3年(1914)7月、東岡町を芸妓街として隆盛させた京咲楼の名物女将、鳥飼サキが亡くなった。下記の記事を見ると、どうやら京咲楼は息子に引き継がれたようである。京咲楼は、大正8年ごろに猿沢池近くに支店を出店し繁盛するも、大正10年2月に「一家の事情により閉店」の広告が出ていたのでお家騒動があったものと思われる。
大正3年(1914)には、東岡町の屋台骨を揺るがすもう一つ大きな出来事があった。生駒トンネルの大工事が完了し大阪電気軌道(大軌)の開通したのである。大阪と奈良が生駒を経由してさらに近く結ばれ、郡山は蚊帳の外に置かれた状態となった。
大軌奈良線の開通は、郡山の遊廓にとっては大きな痛手であった。特に芸妓街として発展した東岡町にとって、大軌奈良線開通によって開設された生駒停留所周辺の開発は大痛棒となった。
生駒はもともと生駒山中腹に位置する「宝山寺」へ大阪からの参詣客が多く訪れるところであった。大軌奈良線生駒停留所開設によって宝山寺はより身近になり参詣客を吸い寄せ、生駒停留所周辺には芸妓街を中心とした歓楽街が発展したのである。
また奈良市には「東向停留所」が置かれ、元林院が近くなった。これによって元林院の南側に位置する南市にも芸妓街が設置され賑わった。他にも奈良県内では八木や上市、高田などでも芸妓街ができ、大正6年における奈良県内の芸妓数は496人となり、495人の娼妓を追い抜いた。つまり、前述したように遊興の大衆化が進み「大正芸妓」が激増したのである。
そんな中、東岡町は京咲楼の「お咲女将」が築いた「浪花節芸妓」たちを中心に、芸を磨き芸事に長けた芸妓を置くことで他所との差別化を図り生きながらえた。そして大正10年(1921)の大軌橿原線郡山停留所の開設を待つこととなった。
大正中期までの東岡町
下記は、毎年正月の年賀広告を集めたものである。大正中期頃まで、東岡町は「岡町遊廓」と名乗っており、店は5〜6軒で推移していたことがわかる。大正9年の年賀広告にある料理旅館は、岡町遊廓が懇意にしていた旅館である。
また、下の写真は京富楼の豆奴(12〜13歳?)で、まだ幼い面影が残る。この当時、娼妓になるには18歳以上という規則があったが、芸妓には規則がなく女児はおちょぼ(雛妓や舞妓の意味)と呼ばれ芸事の修行を重ねていた。
このように、大正前期の東岡町は芸に長けた芸者を多く育てることに重点を置いた華やかな街であった。おそらく当時の世人は、東岡町と聞いて後年の私たちが考えるような暗いアンダーグラウンドのイメージは持っていなかったであろう。実際には、この後の「大正デモクラシー」期に、東岡町の光の面の裏にある闇の面が暴露されるのであるが、それは次回の投稿で述べることとする。
今回はとりあえず当時の芸妓の年期制や人権等の不当性など、さまざまな問題点は置いといて、東岡町は「郡山を代表するもの、金魚、御殿桜、浪花節芸妓」と世人に讃えられた時代があったことを覚えておいていただきたいのである。
次回の予告
次回は大阪電気軌道奈良線(現在の近鉄)開通によって、どのように生駒町が発展したのか、そして大軌畝傍線(橿原線)開通前後の東岡町の裏の部分について新聞記事を中心に紹介したい。
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