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#7 大阪・京都・名古屋等他府県における赤線転廃業の状況

 それでは同じ時期、他府県の赤線地帯はどうなっていたのか、大和タイムスに記載されている内容からみていきたい。まずは昭和33年1月24日の記事から。

名古屋と大阪の赤線地帯

 愛知県下の実情を調査してきた谷井氏の話によると,同県下約1000軒の全業者が昨年12月15日で営業をやめており、不夜城を誇った名古屋市中村も今は人通りも少なく、81業者のうちトルコ風呂に転業した9軒、バーやカフェーに転業した9軒がまばらにネオンを灯しているだけで,残り約63軒は旅館への転業許可はとったものの,旅館として営業が成り立つかどうかを懸念して許可返上を考えている業者もあるとのこと。営業しているトルコ風呂やバー,カフェーも従来の接客婦は一人も雇っていないが,名古屋駅の付近に見かけられるポン引きの数などから見て,赤線から街娼へと流れた女性がかなりあると予想されている。
 また大阪の状況を視察してきた辻元さんの話では,同府の売春対策本部もまた業者も転廃業については暗中模索の状態だが、婦人団体の間では売春婦に個々面接して事情調査をしているほか,400万円(府と市から100万円ずつ,一般から200万円)をカンパして売春婦の更生資金の一部にすることや,婦人会員が彼女らの親類という立場になって更生を側面から援助しようという親類運動,業者が彼女らに選別を出すようすすめる選別運動などを考えている。(昭和33年1月24日)

 特に愛知県名古屋市中村の赤線地帯(81業者)が昭和32年12月15日で営業をやめたと言う記事内容は興味深い。Wikipediaの「中村遊廓」では、業界のモデルケースとなるべく他県よりも早く廃業したとあり、昭和33年1月からの自主転廃業と記述されている。

 次に、紹介するのは、昭和33年2月22日の新聞で全国の転廃業割合と近畿の割合を比較している。また、どのような業種に転業しているのか、赤線廃業後の影響などもわかる。

京都や神戸などの赤線地帯

転廃業わずか6パーセント 近畿の状況
 ところで祇園乙部や島原、松島、福原など有名な赤線を抱える近畿各府県の模様はどうだろうか。厚生省の調べでは1月末現在、全国の転廃業は20%までこぎつけたというが、近畿ではわずか6%で思うように進んでいない。痺れを切らした婦人団体は完全実施を叫んで動き出している。
 この1年間に大阪で88軒(7.7%)、京都で128軒(2%)の業者が転業した。滋賀八日市の3業者が従業婦を工員にしてトランプ製造業に転向、海南市では自転車預かり業、小説「廓」の著者中書島(京都)の西口さんは下宿宿を同業者2、3軒とはじめたが、場所がらのせいか思わしくないという。
 先斗町、祗園中部など高級お茶屋街が隣接している祇園乙部はジャズ、ダンスでこれに対抗、三味線も弾ける“観光芸者”を置くお茶屋街に、島原は重要文化財“角屋”と“太夫道中”を売り物に観光歓楽街をと目論んでいる。白浜温泉は四月から◼️芸学校を開設。英会話まで教え内外人向きの芸者街へと観光地らしい計画を立てている。変わったところでは島原、七条新地(京都祇園、大阪)の数業者がタクシー会社を希望したが、大阪ではタクシー業界と陸運局からシャットアウト、京都でも不認可の見通しが強い。
 近畿の従業員は約1万人。大半は帰郷、結婚を希望している。ところが政府は22億円の売春防止対策予算要求を3億円に削った。とうとう各地で婦人団体が立ち上がった。関西主婦連など婦人団体が1月5日大阪で緊急大会を開き、各府県の予算計上とカンパ活動を始めた。京都の婦人団体連絡協議会も2月中に30万円を目標に「1円募金」運動を行っており、神戸の婦人団体、売春対策協議会や赤線の実態調査で市民の啓蒙活動を行っている。
 警察当局は従業婦の3分の1は密売春に横すべりすると見ている。一度この世界に入ると、なかなか抜け切れるものではないからだ。貧しさゆえに肉体の切り売りをした者に、帰る家がなければ再びたどる道は同じだという。京都で一月末にコールガール組織が摘発され青線は去年に比べ29軒も増え従業婦は308人も多くなっていることがこれを裏付けしている。大阪では、青線地帯が市内中央部からこれまで売春婦のいなかった地域に移り“新地”を作り始めた。昨年末までにシモタヤ、料理屋と偽装した38業者が検挙され、今年に入って旅館で売春婦を雇っていた業者3人が捕まっている。横すべり組に駐留軍キャンプを追われた売春組織の集団移動、暴力団の支配する売春婦なども加えて、4月から“散笑婦時代”がくると大阪府警では見ている。(昭和33年2月22日)

 ここで興味深いのは、現在「もてなしの文化」としてアピールされている京都島原の角屋が紹介されていることである。先日、角屋を訪れた際はそういった売春は行われない場所で、宴席のための揚げ屋であったことを強調されていたが、果たして本当にそうなのか。高木博志氏(京都大学人文科学教授)の論文「金光教と遊廓・花街―都市布教と民衆」『金光教学, 58』2018にもこのことについての記述があったが、少し調べればわかることだと思う。また、この時期にも太夫道中が行われていたというのも面白い。

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↑ 写真は2021年3月末撮影の角屋の入り口

 このように売春防止法案が成立し、政府から転廃業後の補償も無いまま、一方的にその期限が切られた全国の赤線では、とにかく自分たちの「知恵と力」だけで生き残らないといけないため、様々な転業の方法が考え出されていたことがわかる。
 ここに挙げられた記事は、ほんの一部分の事例でしかない。今後、他府県におけるこの時期の赤線転廃業事例を掘り下げ、今につながる赤線跡の歴史を調べるのも面白いかもしれない。

次回は、売春防止法施行直前の接待婦、引子(曳子)の様子を紹介する。


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参考文献 「大和タイムス」昭和33年1月〜2月号
ヘッダ部の写真は2021年に訪れた七条新地の丸窓

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