それでは同じ時期、他府県の赤線地帯はどうなっていたのか、大和タイムスに記載されている内容からみていきたい。まずは昭和33年1月24日の記事から。
名古屋と大阪の赤線地帯
特に愛知県名古屋市中村の赤線地帯(81業者)が昭和32年12月15日で営業をやめたと言う記事内容は興味深い。Wikipediaの「中村遊廓」では、業界のモデルケースとなるべく他県よりも早く廃業したとあり、昭和33年1月からの自主転廃業と記述されている。
次に、紹介するのは、昭和33年2月22日の新聞で全国の転廃業割合と近畿の割合を比較している。また、どのような業種に転業しているのか、赤線廃業後の影響などもわかる。
京都や神戸などの赤線地帯
ここで興味深いのは、現在「もてなしの文化」としてアピールされている京都島原の角屋が紹介されていることである。先日、角屋を訪れた際はそういった売春は行われない場所で、宴席のための揚げ屋であったことを強調されていたが、果たして本当にそうなのか。高木博志氏(京都大学人文科学教授)の論文「金光教と遊廓・花街―都市布教と民衆」『金光教学, 58』2018にもこのことについての記述があったが、少し調べればわかることだと思う。また、この時期にも太夫道中が行われていたというのも面白い。
↑ 写真は2021年3月末撮影の角屋の入り口
このように売春防止法案が成立し、政府から転廃業後の補償も無いまま、一方的にその期限が切られた全国の赤線では、とにかく自分たちの「知恵と力」だけで生き残らないといけないため、様々な転業の方法が考え出されていたことがわかる。
ここに挙げられた記事は、ほんの一部分の事例でしかない。今後、他府県におけるこの時期の赤線転廃業事例を掘り下げ、今につながる赤線跡の歴史を調べるのも面白いかもしれない。
次回は、売春防止法施行直前の接待婦、引子(曳子)の様子を紹介する。
参考文献 「大和タイムス」昭和33年1月〜2月号
ヘッダ部の写真は2021年に訪れた七条新地の丸窓
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