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女性の視点で見る近代遊廓と朝ドラ「虎に翼」

近世の遊廓と近代の遊廓

 みなさんが、遊廓という言葉を聞いて思い起こすのはどういうイメージだろう。艶やかな遊女の着物姿や、吉原の花魁道中のような光の部分?それとも、借金のかたに売られる貧困家庭の少女や、一般社会と隔絶された裏の世界といった陰の部分だろうか。そういえば、2024年春の朝ドラ「虎に翼」でも、山田よねの姉が遊廓に売られ、当人も15歳になる前に売られそうになり逃げ出すというエピソードがあった。この様に貧困に起因する「身売り」を連想する方は多いだろう。また、遊廓のイメージは人それぞれ違っており、おそらく性別や世代によっても、かなりの違いがあるだろう。
 いずれにしても、世代を問わず多くの人がさまざまな視点で見ている「遊廓」だが、タイトルを「近代遊廓」とし、時代を明治〜昭和初期に焦点をあてているのは理由がある。近世の遊廓と近代の遊廓には、大きな隔たりがあるからだ。

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京都のカフェに置いてあった雑誌の表紙

近代の遊廓はどんなもの?

 みなさんが思い浮かべる遊廓イメージのほとんどは前者の近世遊廓のものである。吉原の花魁道中や「ありんす言葉」など、時代劇や映画、漫画やドラマをなんども観て、脳内にそのイメージが刷り込まれてしまっている。

 しかし明治維新後、全国至る所に遊廓が新設されたことはご存知だろうか?

 実は昭和初期まで、ほとんどの都道府県に政府に公認された遊廓が存在し、多くの娼妓が性売買を行っていた。近代に新設された遊廓の多くは、軍隊の駐屯地とセットになって作られたもの、そして都市の発展とともに大型化し町から少し離れた場所に新しく区画されたものが多く、戦争が激しくなるまで歓楽街としてたいへん栄えた場所だったのである。
 歴史にあまり興味のない方の多くは、明治以降の遊廓がどのようなものだったのか、ハッキリとイメージできる人はそれほどいない。ましてや、近世と近代の遊廓制度の違いがわかる人はもっと少ないだろう。実際、近代遊廓の研究分野はまだ新しく、かくいう私も現在進行形で遊廓の仕組みや、法的な制度について勉強しているところだ。

女性がハマる近代遊廓の世界

「え?女性なのに遊廓なんて調べてるんですか?」と驚かれたことがあった。

 わたし自身はそんな驚くことなんだろうか?と思ったが、おそらく一般女性の遊廓イメージは「性売買を行う卑猥で怖い場所」で、女性が立ち入る場所ではないという考えからだろう。

 しかし、最近は女性の遊廓ファンが増えているようだ。事実、わたしが主催する古民家ファンのFacebookグループ(会員数2.2万人)で、遊廓まち歩きツアーを2回開催したのだが、参加希望者は女性の方が多かった。興味はあるが、一人で訪れるのは少し怖いという感覚なのだろうか。男性の主宰よりも、女性主催と言うのが申し込みやすかったのかもしれない。

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洞泉寺遊廓旧川本楼三階から見える景色(左外には2023年解体された山中楼が見える)

大正遊廓建築の魅力

 話は変わるが、現在日本全国各地にある大正時代の建造物が解体されている。
 大正時代とはだいたい今から100年前にあたるのだが、当時の建造物が耐用年数を大幅に超え、空き家となり朽ちているのだ。

 大正時代の建造物と遊廓になんの関連が?と思われるかもしれないが、実は近代遊廓は明治末〜大正期に隆盛を迎えた。つまりこの頃、贅を尽くし趣向を凝らした遊廓建造物が各地に建てられたのである。
 遊廓建造物は一般の民家とは全く違う、独特のファサード(前面の意匠)を持つため、令和を生きる我々から見るととても貴重なものに思える。

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洞泉寺遊廓旧川本楼
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 しかし、それら遊廓建造物もここ数年、解体のピークを迎え、町からどんどんとその姿を消していっている。解体時には建物だけでなく、そこに保管されていたモノや書類を含む遊廓資料が含まれることもある。それが廃棄されたり散逸し、遊廓の歴史を語るものが全て失われてしまうのだ。だから、自分の町に遊廓があったことすら知らない人は多い。

タブー視され残せなかった近代遊廓

 近代遊廓については、昭和33年の売春防止法施行以降、そこで働いていた女性や業者(楼主)が時代の変遷とともに偏見をもたれた時代があった(以前その頃の新聞記事を元に差別が起こった背景を考察したので参考にされたい)。

 かつての当事者がそこに住んでいる間は、これを掘り起こすことはタブー視されるようになっていた。関係者は口をつぐみ多くを語らない。資料は密かに処分され、老朽化した建物が解体され、そういった歴史は一切存在しなかったかのように、幻と消えてしまう。

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2020年3月 洞泉寺遊廓解体現場(転載厳禁)
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洞泉寺遊廓解体時に見つかった反故紙(転載厳禁)

 そのため、日本各地でその失われつつある遊廓建造物を保存したい、そしてその歴史を詳らかに調べてたいと考える人が増えてきた。noteでも各地の遊廓史を掘り起こしてまとめている同士が増えてきた。怪しげなブログサイトや興味本位のみで旧遊廓の廃屋に侵入した動画を流すyoutubeが存在するように、WEB上の遊廓の情報は玉石混交である。
 そんな中で、地道に当時の新聞記事などを調査して、愛知県内の中村遊廓などの遊里史を紹介していることぶきさんのnoteを紹介する。ことぶきさんは東海遊里史研究会などを主催し、定期的にイベントを開催しているので是非一度のぞいて見て欲しい。

日本の女性史を知るきっかけに

 ところで、2024年春の朝ドラ「虎に翼」の舞台も大正後期〜昭和初期である。女性には参政権がなく財産管理能力さえない「無能力者」と言われる時代。どんなに優秀で実力があっても「女の幸せは結婚することである」とされ、自分の生きたい様に道が開けない時代であった。今もなお、そのような社会的風潮は残っていると感じる場面が多々あるが、そういう意味でもこのドラマはいろいろなメッセージを我々に投げかける。
 近代遊廓が存在したのもまさにその時代で、日本に遊廓が存在したことと、男性と同等に女性の権利が認められなかった事とは大きく関係していると思う。
 というのも、日本の遊廓を支える「公娼制度」は、その名の通り日本政府が公許しているという点に大きな問題があったからだ。第一次世界大戦後、国際連盟の発足によって世界的に労働者の権利だけでなく、女性や子供の人権擁護が叫ばれる様になった後も、実質的に女性を売買する「公娼制度」が続けられたのは、以下のような理由からである。

公娼制度は一般社会の風紀維持、性的犯罪予防のために必要である。

『公娼』昭和2年2⽉1⽇発⾏

人に生殖欲ある以上、売淫の俗(中略)を根絶すること能わざるべきに依り

東京⽇⽇新聞(⼤正5年5⽉4⽇号)「公娼論と私娼論」

多くの娼妓の中には自ら好んで彼の道へ入ったものも少なくはない。(だから公娼を)廃するとその癖は何処かに現れ、私娼の増加となる。

奈良新聞(⼤正12年12⽉19⽇号)

日夜辛苦したる男子が一ヶ月に一二回性的方面に心身の慰安を求るに対して税を課するが如きことは心身の慰安を暴圧するもの

奈良新聞(⼤正10年12⽉13⽇付)

 いかがであろうか。「社会治安維持のため、日夜辛苦したる男性のために女性が犠牲になることは仕方がない」という論調なのである。もちろんすべての男性がこの様な意見だったわけではなく、遊廓経営に絡む利権を持つ人たちが公娼制度を存続するために発した先鋭的な意見であった。
 しかし、遊廓を利用する男性の数を当時の日本政府が調査したところ、

昭和4年中に於ける全国貸座敷の遊興者総人員は2278万4798人の大きに対して居る。大正14年の国税調査の結果に顧みれば、男性の総人口3千1万309人であって、20歳未満の者及び51歳以上の者を除けば1195万6058人、すなわち20歳以上51歳未満の者は大体年に1.9回娼妓を相手に遊興している計算になる。

『公娼と私娼』昭和6年2月 内務省警保局

・・・とされるように、多くの男性が遊廓を利用しており、公娼制度を廃止することに対し積極的だったとは思えないのである。

 この様な状況に対して、当時の「フェミニスト」たちは「公娼制度廃止」を初めとする女性の権利獲得に声を上げて訴えていた。例えば当時の日本の婦人問題評論家・研究家である山川菊栄は「公娼制度」について以下の様に厳しく非難している。

 山川菊栄が言いたかったのは、女性の選択権であり、NO!と言える権利であった。今では当たり前に私たち一人一人がもつ「人権」。フェミニストやフェミニズムと聞けば、何やら小難しい印象を持たれる方も多いと思うが、朝ドラ「寅に翼」を見て当時の女性の置かれた立場に疑問を感じたならば、それを持たなかった時代の女性たちがその壁にどう立ち向かい、それをどうやって手に入れていったのかを知ってほしい。そして遊廓に興味を持った方達が、日本近代の女性史を考えるきっかけになればと願う。



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