明治・大正・昭和の奈良四遊廓 #2明治維新頃
はじめに
#2では明治維新前後の奈良の遊所がどのような様子だったのかを概観します。まずは、前回のおさらいです。
かつて奈良県には、奈良市と郡山町(現在の大和郡山市)に計四カ所の遊廓がありました(奈良四遊廓)。これらは明治5年(1872)11月発布の奈良県令によって営業を許可された奈良県の公認遊廓(貸座敷指定地)で、奈良の木辻(瓦堂)・元林院、郡山の洞泉寺・東岡町をいいます。
上の変遷図にあるように、江戸時代、幕府に遊所として公認されていたのは木辻のみであり、それ以外は私娼のいる「非公認遊所」として扱われていました。近世の遊廓は木辻の楼主連が大和国の遊所の支配を行い、違反するものは奈良奉行所に訴え出ていたことを、#1でお話しました。
今回は、明治維新ごろの奈良四遊郭についてご紹介したいと思います。
1. 明治維新頃の奈良市の遊廓
まずは、現在の奈良市内にあった2つの遊廓について。江戸時代の元林院町は絵屋町とも言われ絵師が住む町でした。木辻は前回お話ししたように大和の公認遊所として栄えた町でした。
下は江戸時代の奈良町の絵図です。奈良奉行所が北側に位置し、その南に興福寺、猿沢池があります。そのほとりに元林院町があり、木辻町は奈良町の南端にあります。このように、奈良においても遊所は都市の周縁に位置していたことがわかります。
さて戊辰の役の際、大和は京都鳥羽伏見のように大きな戦火に巻き込まれることはありませんでした。しかし幕末には人々の往来が激しくなり、各地の旅籠屋や宿泊施設、これに付属する非公認の遊所屋、曖昧屋等が並び建ち、連日繁盛していたのではないかと考えられます。それを示すように絵屋町だったはずの元林院周辺には、幕末ごろ曖昧屋や煮売屋の店が十四軒もあったことが記録されています。
このような状況は、幕末期に幕府の権威が弱まり、奉行所等の取り締まりが行き届かなくなっていたことを示します。すなわち従来の「公認遊所一カ所体制」(佐賀朝2013)が崩壊し、私娼街や非公認遊所が激増することになりました。そこで木辻町は各地の遊所から上納金を受け取り、黙認するようになったようです。
このとき、特に元林院町が発展していく様子が以下のように記されています。
ではなぜ、これまで絵師の町であった元林院に人が集まり、曖昧や、揚げ弓屋などが置かれるようになったのかというと、恐らく明治元年(1868)政府が奈良興福寺に大和国鎮撫総督府を置き、多くの新政府軍関係者が滞在したからと考えられます。すなわち興福寺周辺が大和全域の政治の中心となり、芸娼妓の需要が増えたためでした。
反面、興福寺界隈から少し離れた場所に位置する木辻遊廓は苦境に立たされていたようです。
このように、木辻は苦境にありながらもこれまでの権益を守るために、元林院町の料理屋7軒に対し①酌取女を27人まで、②益金(1人につき1年1両1分×人数分)を木辻に支払うこと等の取り決めをし、証書を交わして営業し始めたといいます。幕府の庇護を失ったとはいえ、明治初年においても木辻の影響力の大きさをうかがうことができます。
2.明治維新前後の郡山の遊廓
では、郡山にあった2つの遊廓はどうだったのでしょうか。まずは東岡町についてはっきりはしませんが、以下のように言われています。
どれも元ネタは、南都馬角斎のものと考えられますが、このように岡町では明治四年ごろまで10軒ばかりの店があり、流行妓がいて相当繁盛していた様子が伺えます。しかし、明治維新後しばらくしてその繁栄にも影が射します。
郡山藩は幕府の親藩でありながら、慶応四年の戊辰戦争では新政府軍に味方し、維新後も藩士たちが政務に当たっていました。そのため、明治四年の廃藩置県につづき、明治七年(1875)に行われた家禄奉還願の提出までは、江戸期中期に約20000人と言われた郡山の人口は、まだそれほど変化がなかったと考えられます。しかし家禄の奉還後、士族の離散によってその人口は13000人程に激減し、政庁が奈良町に移ったこともあり、東岡町は大打撃を受けました。
同じく郡山町の洞泉寺町はどうだったのでしょうか。
残念ながら洞泉寺における明治維新頃のことはあまり伝わっていません。しかしながら「#1江戸期の四遊廓」で見た店の名前は越後屋ぐらいで、多くの店が廃業に追い込まれていた様子が窺えます。この洞泉寺町衰退の背景には、大阪と奈良を往来する街道に面しながらも外町であった岡町遊廓の隆盛と関係があるやもしれません。洞泉寺遊廓は城下町にあるため、城下町の中に入るにはいずれかの大門を通らなければなりませんでした。その大門には当然番所があり、幕末の動乱期には、不審者の侵入がないか厳重な取り締まりが行われていたはずです。
このように、明治維新期における東岡町と洞泉寺町には大きな差が生まれていたことが想像できます。
明治初期における遊所の取り締まり
郡山城下での不審者取り締まりについて前述しましたが、実際に奈良でも以下のような厳重な取り締まりが行われていました。
また、明治3年(1870)10月10日 に発布されたお触書には「公事訴訟などの者が泊宿の際、囲女や娼妓に粉敷き者の呼び入れ禁止、不届きものがある場合は咎めるべし」というものがあり、明治4年(1871)2月には以下のように「木辻・元林院遊所へ来所の者は取調の上申出ること」とされました。
このように、まだ明治新政府による統治が進んでいない時期には、町の治安を守るために町人によって他所から来た不審者のチェックが行われていました。
そして明治5年(1872)6月には、奈良県から「隠売女体の所業禁止、および正副戸長の取締りを強化」という布告がありました。これまでは、町内の往来人を取り締まるものでしたが、この頃から性売買の営業を行っている側(遊女・曖昧屋)の取り締まりが始まったことがわかります。
その後すぐ、明治5年(1872)9月にも同様の布告が達せられます。
すなわち、「酌取等の隠売女所業禁止にも関わらず、不心得者があり再度厳重禁止。正副戸長のみならず、父兄親族もよく心得て取り締まること」という内容のもので、上記の厳重な取締の中でも曖昧屋・遊女が増加し、それに伴い梅毒患者が増えたとのではないかと考えられます。私娼が増加した背景には、幕末の動乱で家禄を失った武士の家族が急増したこと、田畑が荒れたため飢饉によって農村が疲弊したことに関係するのではないでしょうか。
まとめ
ここまでみてきたように、奈良の遊所は幕末の動乱によって様々な様相を呈していました。江戸時代に隆盛していた木辻は衰退しつつも支配力を誇示し、元林院には新しい遊所が誕生しました。郡山では人の往来の激しい東岡町では名妓が複数誕生するほどの賑わいを見せ、城下内の洞泉寺町は衰退し六軒程度の店しか残っていませんでした。
明治維新期後、明治初年の奈良の四遊廓では町の治安維持のために往来者の取り締まりが行われていましたが、明治4年に奈良県政が開始される頃には、遊女の急増によって営業者側の取り締まりを強化せざるを得ない状況にありました。
次回の#3では、明治5年に発布された芸娼妓解放令から、奈良県が廃止された頃の奈良四遊廓について見ていきたいと思います。
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