見出し画像

奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓③生駒芸妓との競合

 ①②に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。③では大正後期の東岡町(岡町遊廓)の状況と芸妓の待遇について記す。ヘッダーの写真は、岡町遊廓芸妓の稽古風景。


前回のおさらい

 大正前期の好景気で、全国的に芸を売らずに身体を売る「大正芸妓・不見転芸妓」が増えたことは前回書いた。その背景的要因には、好景気によって農村部から男女ともに多くの若者が都市に憧れ、都市部へ流出し労働者が増えたことが挙げられる。彼らの多くは都市に設置された歓楽街の誘惑に抗いきれず、遊廓や花街に飲みこまれ遊客・芸娼妓酌婦の増加につながった。

 東岡町は元々公認遊廓であるから、性売買を公認されている娼妓が居たのだが、下図のように明治中期以降は10人未満で低迷していた。実はこの時期、東岡町は浪花節芸妓の活躍で、芸を売る芸妓街としてその名を轟かせていたのである。すなわち、大正前期の東岡町は芸に長けた芸者を多く育てることに重点を置いた華やかな街で、「郡山を代表するもの、金魚、御殿桜、浪花節芸妓」と世人に讃えられた時代があった。

奈良四遊郭の娼妓数の変遷(M21以前は大阪府統計書、以降は奈良県統計書より)

大正期の芸妓の取締について

 大正期、芸妓になるには娼妓と同じように警察に届を出し、芸妓として登録する必要がある。その当時の規則を、『奈良県警察史』から引用する。

芸妓の増加とその取締
 県下の芸妓は明治21年に50人であったが、年々増加の一途をたどり、明治25年には110人となり、明治44年末には193人となった。芸妓の取締については全国統一した規則はなく、本県では明治25年5月31日「芸妓営業取締規則」(県令第38号)を定め、
①芸妓になろうとするものは、所轄警察署又は分署に願出て、免許鑑札をうけること(第一条)
②芸妓は、警察署・分署の認可をえた土地に居住すること(第四条)
③客席に出るときは必ず免許鑑札を携帯すること(第六条)
④遊客の中で不相応の金銭を所持し、または不審の挙動があるときは、速かに警察官吏へ密告すること(第七条)
などと規定し、これらに違反したときは、1日以上10日以内の勾留、或いは10銭以上の15銭以下の科料とすることとした。

『奈良県警察史 明治・大正編』623頁

 上記のように、「芸妓営業取締規則」によって、彼女たちは娼妓のように性売買を行ってはいけない決まりであった。よって、前述の不見転芸妓は、違法行為であるため「密売淫」と報道され「私娼」として扱われていた。

新たなライバル、生駒の台頭

 下図のように、明治期は大阪と奈良が現在のJR関西本線(旧国鉄)で直結されており、郡山はその沿線上に立地していた。また、大阪と奈良を結ぶ主要街道の龍田越奈良街道も郡山を経由する必要があったため、財政界の遊客層は人力車や馬車等で郡山を経由して県庁所在地である奈良市を訪れていた。

明治期の交通網(奴作成)

 それが大正3年(1914)4月大阪電気軌道奈良線の開通で、下図のように大阪上本町と奈良が直接結ばれるようになると、郡山の立地的優位性は一変した。大阪ー奈良間の新たな中継地、生駒停留所が誕生したためである。

近代におけるの大阪ー奈良間の鉄道・交通網(奴作成)

 さらに大阪電気軌道奈良線開通を契機に奈良の遊客数が激増し、新たな南市芸妓街(奈良検番)が設置された。これに危機感を感じた郡山の経済界は、のちの近鉄橿原線の誘致を進め、開設されるまでの間は西大寺と郡山を馬車で結ぶこととした。しかし大阪からのアクセスが良い生駒〜宝山寺付近の開発スピードは目覚ましく、さまざまな土地問題が勃発しながらも年々発展を続け、郡山岡町遊廓を脅かし続けていた。
 その様子は新聞報道されている。例えば大正3年まで宝山寺参道には僅か4〜5軒しか建物が建っていなかったが、日本最初のケーブルカーが敷設された大正7年(1918)には茶屋や土産物や等が150戸以上に及んでいた。また、大正9年(1920)正月の大阪朝日新聞には、奈良と生駒が多くの人出で賑わった様子が掲載されているが、郡山(東岡町)の記述がない。同年4月には「生駒と郡山の芸妓置屋大紛擾、業務妨害として生駒側から郡山側を告訴す」という見出しの記事があり、生駒芸妓との対立が鮮明になっている。さらに同年9月には生駒町政施行が明らかになった生駒停留所界隈に新地開発の計画がなされ、茶店、料理屋、旅館の356戸が建設されると報道があった。

 このように生駒が新地開発によってさらに発展していく様子を横目に見ながら、東岡町は大正10年(1921)4月1日の大阪電気軌道「郡山停留所」の開設を心待ちにし、この苦境を耐え忍んでいたようである。
 ちなみに生駒新地の詳細については、まだ私自身の調査が進んでいないため、以下に詳細がまとめられたブログを参照してほしい。

生駒の新開地開発と郡山遊廓

 さて、生駒の新地開発には大阪のデベロッパー(土地や街の開発事業者)五社が関与していたことが報じられている。生駒の新地開発は大当たりし、土地開発会社は大いに儲けたのだろう。次は大阪電気軌道畝傍線(現在の近鉄橿原線)の開通と郡山停留所の開設を見込んで、郡山にもその触手を伸ばしてきたのである。
 大正10年3月1日「郡山岡町遊廓を生駒へ移す魂胆」という記事がある。この背景には、生駒の町政施行を契機に、生駒に公娼のいる遊廓街を設置したいという思惑がある。この時点では、東岡町には3軒の置き屋に娼妓が15〜16人(奈良県統計書では大正10年度末は9人)居たようであるが、生駒へ移転して置き屋(貸座敷)を20軒に増やし、娼妓は70〜80人にしようという計画がなされたのである。
 この計画に対しては奈良県の役人も「近年、人道問題の喧しい折柄、(遊廓を)新設するということになれば反対運動が起こるかもしれないが、既にある遊廓を郡山から生駒に移転することは、特に支障がないのではないか」という意見もあったようで、記者は「郡山も一つ踏ん張らねば、生駒に取られる」と締め括っている。

ついに大阪電気軌道「郡山停留所」開設

 大正10年(1921)4月1日、ようやく大阪電気軌道畝傍線の一部区間、西大寺-郡山間が開通した。これによって「郡山停留所」が開設され、これを祝う祝賀行事が行われ、当日は上のような報道も何のその、郡山町民総出で三日間飲めや踊れの大騒ぎだったようである。この祝賀行事で花を添えたのはもちろん東岡町の芸妓衆で、花車に乗って町内の目抜き通りを練り歩いたという。

大正10年(1921)4月2日付『奈良新聞』
大軌開通祝賀行事で東岡町芸者を乗せた花車
(『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道2010)

芸妓の待遇問題

 このように郡山町に念願の大阪軌道畝傍線が開通され、新しい時代を迎えようとしていたちょうどこの頃、第一次世界大戦後の不況風が吹き始めており、また大正9年(1920)の国際連盟発足により、日本国内でも労働者の「人権」に対する意識が高まっていた。いわゆる、大正デモクラシーである。
 この時期、工場労働者や学校教師等の待遇改善が注目され、連日新聞報道されていたが、芸娼妓の待遇についても議論されるようになった。特に女性の人権問題は廓清会や婦人会等の団体が廃娼運動を行い、熱心に普及活動し国会でも取り上げられる程であった。つまり、これまでの芸妓・娼妓の待遇の悪さ、楼主による人権蹂躙・搾取等といった問題が世間の注目を集めた。
  大正中期、芸妓の待遇で問題とされたのは、芸妓になる際に実質的な人身売買が行われていることであった。娼妓になるのは18歳以上という規則がある中、芸妓は10歳前後の幼い頃から「芸妓仕込み」や「養女」という名目で置き屋に売られていた。もちろん就学はしていない。実際に、大正11年の調べでは県内に12歳未満の芸妓見習いが4人、15歳未満は32人も居たことがわかっている。さらに詳しく見ると、18歳未満の芸妓がが奈良(木辻・元林院)には6名、郡山には17名居たことがわかっている。このように親に売られた多くの芸妓は、永く前借金に縛られて本人の意思で廃業することができず、前借金を増して娼妓になっていくものも多かった。実際に大正後期以降の旧川本楼に残された一時史料「娼妓名簿」でもその傾向が高いのである。
 こういった問題に対し、大正10年10月奈良県は芸妓置屋規則を見直すこととした。そして翌大正11年(1922)7月、県令第三十二号「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が発表された。その要点が新聞報道されていたので、以下に紹介する。

改正実施の芸妓置屋規則の要点
芸妓優遇とお客の便利を眼目とする

 31条よりなる「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が11日発表さるるとは昨日の本紙にいち早く報道したところであるが、いよいよ県令第三十二号としてその取締規則が発表された、大体から観察して今回発布された此の規則は芸妓自身の保護お客側の利便を眼目とした血も涙もある最も適当なものとされている。今直接間接最も必要な点を列挙するとこうである。
まず第一条の4号には芸妓になろうとする者は同じ戸籍内に在る1番血続の近い親(親ない時は家族の戸主)の承諾書が要る。満20歳にならない者は実父(実父なき時は実母、実父母なきときに実祖父、実祖父なき時には実祖母)または後見人の同意書、妻にあっては其の外夫の同意書、同意を與ふる者の無い時又は所在不明等により同意を得ることができない時にその理由書を警察署へ出願し許可を得ねばならぬ。即ち最も近い血統者の承諾が是非必要で従来の如き養女とか名目の下に人身売買を徹底的に防ぐ算段である。
 次に第二条として左に揚ぐる五つの場合には絶対に芸妓営業を許可しないことにしてある
(一)小学校6年を卒業しないもの
(二)前記の最も近い血統者の承諾を得ない場合に其の事由が正当でないと認められた時
(三)癩病、結核、トラホーム、ヒゼン、花柳病の者
(四)芸妓置屋との営業に関する契約が公の秩序又は善良な風俗とに反する時
(五)品行著しく不良の者
次に最も芸妓にとって必要な事項として
(一)仕事して居る時でも芸妓は営業許可証をいつも携帯する事
(二)営業許可証は他人に貸与しない事
(三)午後12時以降日の出前は歌舞音曲その他喧しい行為を絶対にしないこと、よく抱え主が芸妓の営業許可証を他に貸すを徹底的に防ぎ、又一方歌舞音曲は是非12時迄でこれは11日の晩より実行する。万一之を違反するときは無論営業処罰令で罰せられる。
又第八条に奈良市・郡山・生駒町における芸妓居住の区域及び芸妓置屋営業の場所は従来奈良市の元林院町他二ヶ町、郡山の大字洞泉寺外一ヶ村、生駒では大字谷田即ち大阪軌道本線以南で参詣新道筋の東西各一町以内に限られてある但し特別の場合は此の限りではない。
次に最も大切な事項として
(一)芸妓の居間は1人当たり是非2畳以上でなければならぬ大いに優遇してやる事。
(二)芸妓の稼業に関しては明細帳を備へ記入を明らかにする事。
即ち芸妓が今楼主よりの借金が何程あるか年期が後何年何ヶ月残っているかを最も詳細に記す、時々警官を派して調査する万一詳細に記入していない場合は、厳罰に処す規定である。右は各署員の検閲する、十六条には芸妓の花代は割一的に決定し、変更するときはいちいち所轄署を経て知事の認可を受けねばならぬ。十八条に芸妓・芸妓置屋又は検番は宿屋もしくは紹介業を兼ねることが出来ない但し芸妓置屋と宿業との兼業は村落に於いて特殊の事情ある場合は知事之を許可することがある、右宿屋または紹介業の兼営を禁止されたのは一大改革で該当業者の影響大であるが其の適用は2ヵ年間の猶予を設けられた。

大正11年(1922)7月11日付『奈良新聞』

 このように31ヶ条の条文によって幼い女児の人身売買を極力防ぎ、置き屋と紹介業の兼業を禁止した。また花代を一定にして稼業中の芸妓の借金がいくら残っているか「明細帳」を以って明らかにすることが規定された。
 すなわちそれまでは、小学6年生になる前の女児が芸妓仕込みに出され、芸妓の居間は一人当たり2畳以下で、芸妓の花代は一定ではなく借金が何程あるか年期が後何年何ヶ月残っているかも分からなかったということである。

 「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が大阪でも為されていたのか未調査ではあるが、大正11年9月には大阪で「人の自由を束縛し且つ本人の得たる利益を不法に他(者)に収得せしむる」問題は「公序良俗に関する法規に違背する」ため、「当初の契約(芸妓の年期契約)は無効」との新しい判決が出た。

郡山岡町芸妓の待遇

 郡山署は大正10年10月、郡山岡町遊廓の芸妓の花山帳や売上帳、遊客台帳といった経営帳簿類を引き上げて調査を開始し、売上帳や遊客台帳と花山帳の内容に齟齬がある違法楼主に対し、営業停止等の処分を行なった。こういった違法行為はこれまで日常的に行われていたことが報道されている。

 そして「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が発せられた年の大正11年、奈良新聞の広告欄には郡山の岡町遊廓として京咲楼、京富楼、京縫楼、竹島楼、山村楼の5軒が名を連ねていた。奈良県の統計書を見ると、同年末時点の貸座敷は1軒増え6軒になっており翌大正12年も貸座敷数はそのままであった。大正11年10月の新聞記事によると郡山岡町の芸妓数は35人で、娼妓数は10人前後であった。
 そのような状況の中、京富楼の芸妓一福が前借金はもう返済したはずとして自由廃業を訴え、その待遇の悪さ、楼主の搾取を暴露したことが新聞報道された。

貪欲飽く無き楼主の内面暴露 岡町遊廓に残る因習的悪弊
 (中略)彼女等(芸妓)は娼妓に比して自由な生活を営み得るとは云え、彼女等が同席も堪えないほど憎悪を感ずる男でも黄金の光を以て楼主仲居等を眩惑せしめた以上一夜の春をひさがねばならぬのだ。(中略)
 かくして彼等が得た枕金は、楼主と仲居等の為にもぎ取られ、血類の結晶として彼等が得る所は、漸く白粉代に過ぎないものである。是は各地の花柳界にも蟠る弊習であるが、殊に本県に於ける郡山町東岡町遊郭はこの陋習ろうしゅうが牢固として抜けない。この悪辣にして冷酷な態度に如何に弱い彼女等とて不平が無い筈はない。
 されば数年前には同地の「雅弥」なる者が、この問題を提げて自由廃業を叫び、遂に法廷で厳めしい判官に枕の塵を払われた某検事や某教育課長の氏名、其の他知名の士を示して苦笑せしめたことがあった。爾来同遊郭では此の悪弊を一掃すべきであるのに貪欲飽く無き楼主連は世間の悪■を馬耳東風に聞き流し、可憐な芸妓から血の出る様な枕金の割前をはねていたが、最近に至って又もや此の内面が暴露された。
 それは同地京富席抱え「一福」こと、□岡ハツ(23)の自由廃業事件である。彼女の自由廃業の理由とするところは、1~2新聞で報道せられたように、彼女が大正8年9月1日にお披露目してから本年11月13日満4年2ヵ月間の総稼ぎ高が、金1966円80銭に達し、前借金及利子衣装費食費諸積立等一切の諸費用を差し引くも、貸金1314圓70銭也、残額を生じ是は当然楼主から支払いを受け得るものであり、且前借金は返済し得たものであるから金銭貸借を主眼として雇用関係に立った妾は京富席の抱え娼妓として働くの必要を認めないというにある(中略)。
 されば彼女は当初から既に今日あるを予期していたが故、お披露目当時から今日までの花数の微細を花山帳に記載しあるは勿論であるが、殊に細を穿って認められたものは、彼女の言う「女として恥しい云々」の金額及び鼻下長の氏名である。されば彼女が此の厳然たる証拠を以て法廷に起たんか多数共鳴者出で、同遊廓は大恐慌を起こさしめるであろう。兎に角この問題は宿弊久しきもので、なかなか除去し得ないものであったが一福が今回の挙は一大革正を促すもので田尾郡山署長は十五日席主一同を召喚して将来に就いて懇々訓戒する處があったということである。楼主連が今にして悔い改めずんば恐るべき結果を生むであろう。

大正12年(1923)12月17日付『奈良新聞』 

 このように華やかな花柳界の表面とは別に、裏では経営に関する帳簿を違法に誤魔化し、楼主や席主が芸妓の稼ぎや客が払った代金を搾取していた様子が続々と新聞記事によって明らかにされていた。

 次回は、大正13年(1924)以降、岡町遊廓が急速に拡大していった様子とその理由を新聞報道等から紹介する。2024年度中に解体される予定の東岡町の遊廓建物はこの頃に建造されたと考えられる。




※ここで紹介した新聞記事は大正時代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。

【注意事項】
※このページのリンク、シェアは大歓迎です。その際、ここで紹介している内容、及び画像のみを無断使用はお断りします。また使用される場合は必ずご連絡いただき、引用先にこのページのURLをご記入ください。
※記載内容のお問合せ・質問などはコメント欄にご記入ください。



いいなと思ったら応援しよう!