奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓③生駒芸妓との競合
①②に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。③では大正後期の東岡町(岡町遊廓)の状況と芸妓の待遇について記す。ヘッダーの写真は、岡町遊廓芸妓の稽古風景。
前回のおさらい
大正前期の好景気で、全国的に芸を売らずに身体を売る「大正芸妓・不見転芸妓」が増えたことは前回書いた。その背景的要因には、好景気によって農村部から男女ともに多くの若者が都市に憧れ、都市部へ流出し労働者が増えたことが挙げられる。彼らの多くは都市に設置された歓楽街の誘惑に抗いきれず、遊廓や花街に飲みこまれ遊客・芸娼妓酌婦の増加につながった。
東岡町は元々公認遊廓であるから、性売買を公認されている娼妓が居たのだが、下図のように明治中期以降は10人未満で低迷していた。実はこの時期、東岡町は浪花節芸妓の活躍で、芸を売る芸妓街としてその名を轟かせていたのである。すなわち、大正前期の東岡町は芸に長けた芸者を多く育てることに重点を置いた華やかな街で、「郡山を代表するもの、金魚、御殿桜、浪花節芸妓」と世人に讃えられた時代があった。
大正期の芸妓の取締について
大正期、芸妓になるには娼妓と同じように警察に届を出し、芸妓として登録する必要がある。その当時の規則を、『奈良県警察史』から引用する。
上記のように、「芸妓営業取締規則」によって、彼女たちは娼妓のように性売買を行ってはいけない決まりであった。よって、前述の不見転芸妓は、違法行為であるため「密売淫」と報道され「私娼」として扱われていた。
新たなライバル、生駒の台頭
下図のように、明治期は大阪と奈良が現在のJR関西本線(旧国鉄)で直結されており、郡山はその沿線上に立地していた。また、大阪と奈良を結ぶ主要街道の龍田越奈良街道も郡山を経由する必要があったため、財政界の遊客層は人力車や馬車等で郡山を経由して県庁所在地である奈良市を訪れていた。
それが大正3年(1914)4月大阪電気軌道奈良線の開通で、下図のように大阪上本町と奈良が直接結ばれるようになると、郡山の立地的優位性は一変した。大阪ー奈良間の新たな中継地、生駒停留所が誕生したためである。
さらに大阪電気軌道奈良線開通を契機に奈良の遊客数が激増し、新たな南市芸妓街(奈良検番)が設置された。これに危機感を感じた郡山の経済界は、のちの近鉄橿原線の誘致を進め、開設されるまでの間は西大寺と郡山を馬車で結ぶこととした。しかし大阪からのアクセスが良い生駒〜宝山寺付近の開発スピードは目覚ましく、さまざまな土地問題が勃発しながらも年々発展を続け、郡山岡町遊廓を脅かし続けていた。
その様子は新聞報道されている。例えば大正3年まで宝山寺参道には僅か4〜5軒しか建物が建っていなかったが、日本最初のケーブルカーが敷設された大正7年(1918)には茶屋や土産物や等が150戸以上に及んでいた。また、大正9年(1920)正月の大阪朝日新聞には、奈良と生駒が多くの人出で賑わった様子が掲載されているが、郡山(東岡町)の記述がない。同年4月には「生駒と郡山の芸妓置屋大紛擾、業務妨害として生駒側から郡山側を告訴す」という見出しの記事があり、生駒芸妓との対立が鮮明になっている。さらに同年9月には生駒町政施行が明らかになった生駒停留所界隈に新地開発の計画がなされ、茶店、料理屋、旅館の356戸が建設されると報道があった。
このように生駒が新地開発によってさらに発展していく様子を横目に見ながら、東岡町は大正10年(1921)4月1日の大阪電気軌道「郡山停留所」の開設を心待ちにし、この苦境を耐え忍んでいたようである。
ちなみに生駒新地の詳細については、まだ私自身の調査が進んでいないため、以下に詳細がまとめられたブログを参照してほしい。
生駒の新開地開発と郡山遊廓
さて、生駒の新地開発には大阪のデベロッパー(土地や街の開発事業者)五社が関与していたことが報じられている。生駒の新地開発は大当たりし、土地開発会社は大いに儲けたのだろう。次は大阪電気軌道畝傍線(現在の近鉄橿原線)の開通と郡山停留所の開設を見込んで、郡山にもその触手を伸ばしてきたのである。
大正10年3月1日「郡山岡町遊廓を生駒へ移す魂胆」という記事がある。この背景には、生駒の町政施行を契機に、生駒に公娼のいる遊廓街を設置したいという思惑がある。この時点では、東岡町には3軒の置き屋に娼妓が15〜16人(奈良県統計書では大正10年度末は9人)居たようであるが、生駒へ移転して置き屋(貸座敷)を20軒に増やし、娼妓は70〜80人にしようという計画がなされたのである。
この計画に対しては奈良県の役人も「近年、人道問題の喧しい折柄、(遊廓を)新設するということになれば反対運動が起こるかもしれないが、既にある遊廓を郡山から生駒に移転することは、特に支障がないのではないか」という意見もあったようで、記者は「郡山も一つ踏ん張らねば、生駒に取られる」と締め括っている。
ついに大阪電気軌道「郡山停留所」開設
大正10年(1921)4月1日、ようやく大阪電気軌道畝傍線の一部区間、西大寺-郡山間が開通した。これによって「郡山停留所」が開設され、これを祝う祝賀行事が行われ、当日は上のような報道も何のその、郡山町民総出で三日間飲めや踊れの大騒ぎだったようである。この祝賀行事で花を添えたのはもちろん東岡町の芸妓衆で、花車に乗って町内の目抜き通りを練り歩いたという。
芸妓の待遇問題
このように郡山町に念願の大阪軌道畝傍線が開通され、新しい時代を迎えようとしていたちょうどこの頃、第一次世界大戦後の不況風が吹き始めており、また大正9年(1920)の国際連盟発足により、日本国内でも労働者の「人権」に対する意識が高まっていた。いわゆる、大正デモクラシーである。
この時期、工場労働者や学校教師等の待遇改善が注目され、連日新聞報道されていたが、芸娼妓の待遇についても議論されるようになった。特に女性の人権問題は廓清会や婦人会等の団体が廃娼運動を行い、熱心に普及活動し国会でも取り上げられる程であった。つまり、これまでの芸妓・娼妓の待遇の悪さ、楼主による人権蹂躙・搾取等といった問題が世間の注目を集めた。
大正中期、芸妓の待遇で問題とされたのは、芸妓になる際に実質的な人身売買が行われていることであった。娼妓になるのは18歳以上という規則がある中、芸妓は10歳前後の幼い頃から「芸妓仕込み」や「養女」という名目で置き屋に売られていた。もちろん就学はしていない。実際に、大正11年の調べでは県内に12歳未満の芸妓見習いが4人、15歳未満は32人も居たことがわかっている。さらに詳しく見ると、18歳未満の芸妓がが奈良(木辻・元林院)には6名、郡山には17名居たことがわかっている。このように親に売られた多くの芸妓は、永く前借金に縛られて本人の意思で廃業することができず、前借金を増して娼妓になっていくものも多かった。実際に大正後期以降の旧川本楼に残された一時史料「娼妓名簿」でもその傾向が高いのである。
こういった問題に対し、大正10年10月奈良県は芸妓置屋規則を見直すこととした。そして翌大正11年(1922)7月、県令第三十二号「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が発表された。その要点が新聞報道されていたので、以下に紹介する。
このように31ヶ条の条文によって幼い女児の人身売買を極力防ぎ、置き屋と紹介業の兼業を禁止した。また花代を一定にして稼業中の芸妓の借金がいくら残っているか「明細帳」を以って明らかにすることが規定された。
すなわちそれまでは、小学6年生になる前の女児が芸妓仕込みに出され、芸妓の居間は一人当たり2畳以下で、芸妓の花代は一定ではなく、借金が何程あるか年期が後何年何ヶ月残っているかも分からなかったということである。
「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が大阪でも為されていたのか未調査ではあるが、大正11年9月には大阪で「人の自由を束縛し且つ本人の得たる利益を不法に他(者)に収得せしむる」問題は「公序良俗に関する法規に違背する」ため、「当初の契約(芸妓の年期契約)は無効」との新しい判決が出た。
郡山岡町芸妓の待遇
郡山署は大正10年10月、郡山岡町遊廓の芸妓の花山帳や売上帳、遊客台帳といった経営帳簿類を引き上げて調査を開始し、売上帳や遊客台帳と花山帳の内容に齟齬がある違法楼主に対し、営業停止等の処分を行なった。こういった違法行為はこれまで日常的に行われていたことが報道されている。
そして「芸妓・芸妓置屋並に検番取締規則」が発せられた年の大正11年、奈良新聞の広告欄には郡山の岡町遊廓として京咲楼、京富楼、京縫楼、竹島楼、山村楼の5軒が名を連ねていた。奈良県の統計書を見ると、同年末時点の貸座敷は1軒増え6軒になっており翌大正12年も貸座敷数はそのままであった。大正11年10月の新聞記事によると郡山岡町の芸妓数は35人で、娼妓数は10人前後であった。
そのような状況の中、京富楼の芸妓一福が前借金はもう返済したはずとして自由廃業を訴え、その待遇の悪さ、楼主の搾取を暴露したことが新聞報道された。
このように華やかな花柳界の表面とは別に、裏では経営に関する帳簿を違法に誤魔化し、楼主や席主が芸妓の稼ぎや客が払った代金を搾取していた様子が続々と新聞記事によって明らかにされていた。
次回は、大正13年(1924)以降、岡町遊廓が急速に拡大していった様子とその理由を新聞報道等から紹介する。2024年度中に解体される予定の東岡町の遊廓建物はこの頃に建造されたと考えられる。
※ここで紹介した新聞記事は大正時代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。
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