1.売春防止法施行を4ヶ月後に控えた赤線のようす
前回は、売春防止法が成立してまもない昭和31年6月の記事を紹介したが、それから1年5ヶ月後の昭和32年11月17日、町はどうなっていたのかを見ていきたい。まずは岡町と洞泉寺、両赤線について当時の様子を紹介している。
このように前回の記事から1年半で縮小傾向にあることがわかる。
それではここの要点を列挙し、わかりやすく比較してみたい。
(1)岡町にはもともと29軒の特殊飲食店があり、洞泉寺は16軒あった
(2)昭和32年時点で営業している店は、岡町が24軒で洞泉寺は13軒だった
(3)この時点で接待婦の数は岡町100人余、洞泉寺は50人余だった
(4)岡町では最後の正月の売り上げを見込んで、一月末まで営業する
(5)岡町の多くの店は、料理屋、旅館、間貸しに転業の予定である
(6)洞泉寺の多くの店は、旅館業に転業するより仕方ないと考えている
前回の記事で昭和30年度、岡町の人々が納めた市民税は90万円であったのに対し、洞泉寺は30万円だったとの記載があった。岡町の三分の一である。そして今回、店の軒数と接待婦の数が記載されており、洞泉寺はどちらも岡町の約半数であることがわかる。近鉄郡山駅近くに位置する岡町の繁栄ぶりがうかがえよう。売春防止法施行後も、土地の利を活かした(※下地図参照)様々な業種への転業が可能と思われ、この段階でも困惑する洞泉寺の組合長と、今後の予定を淡々と語る岡町組合長の明確な温度差が感じられる。
2.売春防止法施行4ヶ月前の町の声
それでは同じ時期、周辺住民はどう考えているのかを見てみたい。
市民の人の声や噂を記載しているが、大まかに下記のようになるだろう。
(1)郡山市民は売春防止法に反対の人が比較的多い
(2)理由の一つ目は赤線がなくなることによって性犯罪が増えるから
(3)二つ目は売春防止法が機能せず、闇営業で性病や犯罪が蔓延するから
(4) 三つ目は年間3千万円のお金を生む赤線が無くなるのは経済的に損失だから
この段階になってもなお、ネガティブに考えられていたことが分かる。特に(2)については、この前年、町内で立て続けに強姦事件が起きており、町の人々は赤線廃止後にこう言った事件が増えるのではないかという不安を抱いていた(※次回紹介する)。また、(4)については前回の記事で豊田組合長が言った経済効果と比べてかなり見劣りするが、1年半の間に廃業した特殊飲食店や接待婦の数から考えて、試算した金額だと思われる。
3.廃業4ヶ月前の接待婦の声
それでは、最後に接待婦自身の声をみてみたい。上記の記事が掲載された一週間後の11月24日号から紹介する。
この記事の要点を以下に挙げる。
(1)売春防止法は接待婦の更正も目的の一つであった
(2)米も十円の金もない中で男児三人を育てる不安に比べ、接待婦の仕事は思ってたほど苦痛ではなかった
(3)妾になる道もあったが、子供のことを考え接待婦の道を選んだ
(4)接待婦として税金を払い鑑札を持つ政府公認の職業という自負がある
(5)同じくらいの収入が得られる仕事があれば、とっくに転業している
このように、当時の接待婦を取り巻く状況や彼女たちの心境がよくわかる。
4.知っておいて欲しいこと
明治の初め、性売買を行う女性は「牛馬に異らず」と例えられるなど(※牛馬きりほどき令、明治5年(1872)10月2日布告の娼妓解放令)の非人道的な待遇を受けていた。しかし、それから80年が経過した昭和32年当時、彼女たちは前借金に縛られた人身売買的な雇用形態ではなく、それぞれの自由意志によって働いているのだ。
旧川本楼のガイド説明では、上のように時代によって変わっていく制度や女性への待遇、そして社会との関係性を無視し、前近代の「花魁や遊女」のイメージだけを当てはめようとしている。もちろん、時間的制限があるため全ての歴史をその場で語ることは難しい。しかし、考えるきっかけを持ってもらう場にすることはできる。そういった施設であってほしいと切に願う。
以上、昭和32年11月の記事を紹介してきたが、次回は同じ時期に郡山で起きた事件を見ながら、当時の社会問題から見える赤線を紹介したい。
【参考文献】
乾実『サンデー郡山より昭和三十年前後の郡山 下』サンデー郡山社 1979
※史料を公正な目で見ていただきたいので、内容は省略せず分割して引用する。
※ここで紹介する記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。