「赤線最後の日」というと、昭和49年(1974)に公開された映画「赤線最後の日」の影響が大きいのか、どうしても昭和33年3月31日と考える人が多いようだ。しかし実際はそうではなかったようで、最後の日は都道府県や市町村によってまちまちだった。ほとんどの赤線がギリギリ最後まで営業してたわけではなく、比較的早い段階で廃業していたことが当時の新聞からも読み取れる。奈良県では紆余曲折あったが最終的に昭和33年3月15日に一斉廃業することになった。その決定までの記事を紹介しながら、行政と赤線業者の攻防、業者の悲痛な声を見ていきたい。
まずは、大和タイムス昭和33年1月17日の記事から。
※紙面の保存状態が悪く読めない文字は◼️であらわす。
上記の記事から、1月17日の段階では、どの赤線地帯も3月末日ギリギリまで営業することを望んでいたことがわかる。早く転廃業をさせたいと考える県対策推進委員や市長などの行政側と、1日でも長く営業を続けたい業者の攻防戦がすでに始まっていたと考えられる。また、ここに書かれている県下赤線地帯の業者数は64となっている。
先程の記事から一週間後の1月24日、営業を続けている業者の数が61に減っている。
2月に入ってから事態は大きく動き出す。関西連合では3月15日一斉廃業を謳っており、これに歩調を合わせる形となる。岡町の業者の多くは転業を望んでいたが、洞泉寺の業者が一斉廃業を決めたのもこの段階だ。
それにしても源九郎稲荷を中心とした歓楽センター計画があったことは初めて知った。万一にもこれが進んでいたら、洞泉寺町のイメージはかなり異なったものになって居ただろう。そして「洞泉寺に巣食うダニ」が何のことを指しているのか今の段階ではまるでわからないが、これも今後の課題である。
この段階になって、ようやく木辻、岡町、洞泉寺の3赤線地帯は歩調を合わせ、3月15日に一斉廃業に踏切ることが決まった。まだどう転業するか決めかねている業種も多かったところからも、行政側の強い要望で話がどんどん進んでいっていることが伝わってくる。
それでは売春防止法によって今後の人生を翻弄される業者の痛切な声を最後に紹介したい。昭和33年2月28日大和タイムスの記事より抜粋して掲載する。
上記のように、売春防止法安は多くの問題を抱えていたことがわかる。業者自身の転業についての補償がないことや、「散々利用しておきながら切捨て御免なのか」と例えられるほど、赤線業者は一方的に「悪者」に仕立て上げられていたことも浮かび上がってくる。
豊田組合長の問うた「性のハケ口」はどうするのか?松田が問うた「女性がよろめいたらどうするのか」という問題に、当時の県婦人児童課長は「男も女も結婚すればいい」と一刀両断した。今回の主題からその内容は外れるため詳しくは記載しないが、国をはじめとする行政側の強力で一方的な封じ込め策で、赤線は消滅したのだということがわかった。
次回は同時期の大阪、京都、名古屋の様子を奈良の新聞から読み解いてみたい。
参考文献 「大和タイムス」昭和33年1月〜2月号
ヘッダ部の写真は大和タイムスの記事から 木辻の町並みと郡山特飲街の女性
※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。