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【史料紹介】③「娼妓になる理由」昭和初期編「灯の女闇の女」より

 ①②では、概ね明治期〜大正中期までの、公娼待遇改善がなされていない時代を中心に娼妓になる理由について見てきた。今回は、昭和12年(1937)発行の草間八十雄著『灯の女闇の女』から、主に東京市における娼妓の家庭環境について見ていきたい。特に娼妓の実家の職業を見ると、当時の低賃金労働者層、下層民の職種がどのようなものであったかわかるため、大変興味深い。

はじめに(売笑婦について)

 これまで、娼妓・芸妓・酌婦(女給・雇女など)・私娼(密売淫)と分けられていたものが、昭和初期には一括りにして「売笑婦(ばいしょうふ)」と云うようになっている。すなわち、「性売買は娼妓だけに認める」という明治以降の公娼制度は、芸妓・酌婦を含めた所謂「私娼」の激増によって、大正末期〜昭和初期には有名無実化していることがわかる。以下では、売笑婦のうち、娼妓についての記述を見ていくこととする。


『灯の女闇の女』草間八十雄 著  玄林社 昭和12年(1937)
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1441674/1/161

5  売笑婦となる理由

 前項所説の如く各府県を合せると3,000人からの女街の手で、一ヶ年には約40,000人の女が色の籬に売られ行くのであり、此内で大東京の巷から売られ行く女の実数は、一ヶ年平均5,264人に上つてゐる。斯の如く多数の女が己れの家を離れ堕落の途を辿り哀れにも売笑婦となるには、其處に大きな原因があらねばならぬ。其原因の主なるものは
(一)経済的関係によるもの
(二)性格的関係によるもの
此二つの中の何れかに因るのである。かうした原因から表面は華やかでも内面に荊棘の生ひ繁っている色の籬に這入り行く女と其の原因に就ては、既に二・三の研究家によつてそれが發表されている。
(一)数世軍士官伊藤富士雄氏によつて娼妓となれる原因
(二)大阪府衛生課長上村行影氏によつて是又娼妓となれる原因
更に警視庁に於ては並に芸妓私娼等につき其れとなれる原因
次に、わたしは中央職業紹介事務局の嘱託として、尚ほ個人として売笑婦の調査研究をなせるので、此調査の中に於て原因も調べたのである。

内務省中央職業紹介事務局の依頼により、洲崎警察署に於て洲崎遊廓の娼妓1,602人につき、娼妓となれる原因を調査せるに左の如し。

娼妓となる原因

a 貧困なる家計補助のため 679人
b 前借金整理のため 872人
c 自己生活困難のため 51人
(合計 1,602人)

 わたしは娼妓となれる原因を左の如くに探究して見た、其れは娼妓となれる女の中には既に売笑婦の生活にあつたものが却々に多いのである。
ツマリ娼妓となり職業的の売笑婦にはなつたが、その直前に芸妓であつたもの、或は酌婦であつたものが娼妓に転換せるものが頗る多く、彼の親出しと称し家庭から離れた女で売笑生活に関係のなかったものは比較的その数が少ないのである。
故に娼妓となる原因を調ぶるに先づ以て、此親出しと称し曽て売笑生活に経験なき女につき、どうして娼妓となれるかその原因を調べ、又芸妓から或は酌婦から娼妓に転換せるものに就いては、その芸妓となれる原因、其れから酌婦であつたものはその酌婦となれる原因等を詮索したのである。

而して、大正15年及び昭和元年の1ヶ年間に、吉原遊廓へ売られきた娼妓の数は681人であった。此内で
・芸妓から娼妓となったるの 91人
・酌婦から娼妓となれるもの 301人
・娼妓を現に稼ぐものが吉原遊廓へ来たもの 131人
・俗に親出しに係るもの並に此れに準ずるものが 151人
合せて681人に上るのである。

 ここに、説述の順序としてこの親出しにかかり、はじめて色里に這入り笑ひを売るやうになつた151人の女につき、如何なる原因で娼妓になれるか、その原因を調べて見ると次の如くである。

6 売笑婦を出せる家庭の職業

娼妓となる原因

昭和2年(1927)著者の調査に係るもの比被調査者151人
(a)貧困に由るもの
(イ)家族の病氣(47人)
内訳
・父の病氣のため 21人
・母病氣のため 15人
・父母共に病氣のため 2人
・祖父病氣のため 3人
・実兄病のため 3人
・実姉病氣のため 1人
・実弟病氣のため 2人

(ロ)家族の病と徴兵関係(2人)
内訳
・祖母病気と兄徴兵のため 1人
・父病気と兄徴兵のため 1人

(ハ)家族の婚姻葬儀の関係(2人)
内訳
・実姉婚姻費整理のため 1人
・実父死亡葬儀費整理のため 1人

(ニ)扶養者喪失の関係(2人)
内訳
・父母死亡のため 1人
・父母行方不明のため 1人

(ホ)併合的欠陥に依る関係(4人)
内訳
・父病氣と取引銀行破産のため 1人
・母の病氣と自分私生児分娩のため行悩みて 1人
・父の病氣と自分私生見分娩のため行悩みて 2人

(へ) 家庭の生活難に依る関係(57人)
内訳
・家計貧乏のため 38人
・家の債務を整理するため 16人
・家の零落を救ふため 3人

(ト)社会的に依る開係
・父他人の連帯保人となり其債務を整理するため 1人

(チ)自然的に拠る開係(17人)
内訳
・水災により家の財産を失なひたるため 8人
・火災により家の財産を失なひたるため 3人
・凶作により農産物表少なきため 6人

(リ)自己生活難に拠る関係(11人)
内訳
・自己の債務を整理するため 1人
・幼児養育の資を得るため 10人

(b)其他
(イ)内縁の夫と離別するため手切金の必要から 1人
(ロ)原因不詳のもの 7人

合計151人


娼妓を出せる家庭の職業

前に説述せるが如く、売笑婦となる原因は
(一)貧困なるに由るもの
(二)自から好むでなるもの
(三)誘惑、強要、詐欺
など、その女の真の心の動きからでなく、他から動かされて売笑婦に堕するものである。其孰れにするも売笑婦を生み出すが如き家庭は、氣の毒にも経済的生活に欠陥のある貧しい家であるか、さもなければ吾児に対する躾けの足りない家庭、卽ち精神的生活に欠陥のある家庭であらう。
 然し原因の主なるものは貧因であるから、言ふまでもなく其家の家計は貧弱なものである。此貧弱なる家計を来せる所以は、生活の資料を得る方法、換言すれば、生業と資本の多少に由るもの、或は勤労的職業に依るものは収入が少額であると云ふことに帰着する。
 然らば、売笑婦を出せる家庭とその家計の主なる者は、いかなる職業に従事するものであらう。

<大正7年及び9年の史料は①②で紹介したため中略>

 更に著者の調査に係る大正15年より昭和2年に亘り、
吉原遊廓に於て娼妓稼業に就ける娼妓681人の其の家庭の職業を挙ぐれば次の如し
(吉原三業取締事務所より資料を提供せり)

(一)農業(191人)
内訳
・農夫  178人
・植木職手傳 12人
・養鶏 1人

(二)漁業 漁師(32人)

(三)工業労働者及其自営業者(138人)
木竹に関するもの(20人)
内訳
・指物職 2人
・木箱職 2人
・木挽職 6人
・竹ゴリ職 1人
・建具職 2人
・桶職  2人
・ポンプ職 1人
・塗師職 2人
・カンナ職 1人
・竹カゴ職 1人
・簾職  1人

金属に関するもの(16人)
内訳
・鍛冶職  7人
・焼印職  1人
・飾職 4人
・鋳金職 1人
・時計直し 1人
・煙管職 1人
・ブリキ職 1人

土石に関するもの(8人)
内訳
・瓦職 2人
・石工 5人
・硝子職 1人

建築に関するもの(26人)
内訳
・大工 18人
木舞職 1人
左官 4人
屋根職 3人

染色織物期に関するもの(8人)
内訳
・紺屋職 4人
・絲取 2人
・紐職 1人
・洗濯 1人

食料に関するもの(2人)
内訳
・菓子職 1人
・蒲鉾職 1人

紙器に関するもの(5人)
内訳
・型紙職 1人
・經師職 4人

被服 身の廻品に関するもの(16人)
内訳
・仕立職 3人
・洗張 1人
・洋服裁縫 1人
・下駄職 4人
・袋物職 1人
・ゴム靴直し 1人
・洋傘直し 2人
・羅宇スケ替 1人
・草履職 2人

雑種のもの(37人)
内訳
・工場職工 17人
・印刷職工 2人
・彫刻師 1人
・ペンキ職工 1人
・木形職工 1人
・楽器職工 1人
・皮革職工 1人
・製版職工 1人
・自転車職工 1人
・水車業 1人
・モスリン女工 1人
・鉱夫 5人
・土木請負 4人

(四)商業(114人)
内訳
・材木商 4人
・薪炭商 3人
・石炭商 1人
・白米商 1人
・瀬戸物商 1人
・魚行商 12人
・昆布商 1人
・肉行商 2人
・海産物商 3人
・果物蜜買 3人
・八百屋行商 3人
・コンニャク売 1人
・駄菓子屋 16人
・塩せんべい 2人
・おでん行商 1人
・豆腐売 1人
・鮨屋 1人
・おこのみ焼 1人
・理髪職 9人
・旅人宿 1人
・料理店 2人
・飲食店 12人
・待合 1人
・洋食店 1人
・農具販売外交 1人
・露天商人 2人
・紙屑買 8人
・雑貨行商 10人
・繭買 1人
・馬糧商 1人
・金魚売 1人
・食料品行商 1人
・牛馬売買業 1人
・呉服行商 1人
・行商 4人

(五)交通業(21人)
内訳
・車力 9人
・力車夫 7人
・電車車掌 1人
・馬夫 1人
・鉄道雇員 1人
・船乘り 2人

(六)知能及び自由業に関するもの(36人)
内訳
・俳優 3人
・集金人 1人
・会社員 5人
・鑑定業 1人
・蒼會所 1人
・針医 1人
・新内語 1人
・神主 1人
・小使 4人
・芝居出方 2人
・女髪結 1人
・周旋屋 1人
・妓夫 2人
・配違人 1人
・コック 1人
・米屋店員 1人
・写真屋 1人
・内職人 (数字記載無し)

(七)筋肉労働に関するもの 33人
内訳
・日雇人夫(21人)
・鳶職 8人
・撒水夫 9人
・道路人夫 3人

(八)無職 109人
(九)不詳 7人
総計681人

 上来述ぶるところの著者が調査せる、娼妓681人の各家庭に於ける生計の主なるものと、其の職業の種類を見ると、
娼妓に於いては農業によるもの最も多く、此比例2割9分5厘(29.5%)に上る、而して農業と云ふも概ね無産の小作百姓であり、
次は工業労働者、又は自から製造工業を営むもの2割3分(23%)であり、
更に次は商業によるもので、此商業と称するも其の多くは薄資の商人であること言ふまでもない。
第三は無職の1割6分(16%)であつて、娘や妹を色里に売らねばならない窮境に
あるのも、ツマリは無職の儘、俗に云ふ居喰ひから生計の行詰りを来したからである。
第四は公務共他の勤め人と自由業に依るもので其比例5分3厘(5.3%)
第五は筋肉労働者である日雇人夫、其の他のもの5分3厘(5.3%)
第六、車夫運送挽などの交通業に依るもの3分1厘(3.1%)
第七、職業不詳のもの七人である。


9 売笑婦の教育程度

 色里に働らく芸娼妓私娼と酒と愛嬌を売物にするカフェーの女給、かうした女の数育程度を見ると、娼技と私娼には無学者が多い。其れから彼の芸妓で東京の色里で動めをするものには無学者は一人もない。東京の芸妓にかくの如く無学者のないのは、明治38年警視庁令をもつて出せる藝鼓営業取締規則執行心得の中に、14歳未満のものにして尋常小学校の課程を終了せざるものは、其の営業を許可せざるのである。故に無学のないのも道理である。
 彼の新らしい女給の中にも少数の無学者がある。而して娼妓の教育程度を時代的に見ると、大正3年救世軍調査によると娼妓百人につき無学は40人であり、大正7年上村氏の調査發表によるも、無学2割7分であり、著者が大正15年に調べると1割6分であり、其後の調べでは、尚ほ少しく減つている。
 かくの如く年を経る毎に売られ行く女の数育程度の向上せる所以は、要するに教育は年々達し、其の日暮で悲しくも娘を売らねばならぬ貧しいものでも、吾児を就学さすものが多くなり、其れだけ親心が向上的に動いて来たからである。(中略)

娼妓の教育程度

大正15年 中央職業紹介事務所発表
娼妓5152人に就て
・無就学 818人
・尋常小学校1・2年 931人
・尋常小学校3・4年 1,234人
・尋常小学校5・6年 1,972人
・高等小学校1・2年 176人
・高等女学校1・2年 18人
・高等女学校3・4年 13人
・高等女学校卒業 0人

 卽ち、娼妓5,152人の中で無学は818人、此割合1割6分弱(16%)に当る、そうして高女に入学せるものは31人であるが、卒業せるものは一人もない。
其れから著者は吉原に於て昭和2年中に抜となるもの681人につき、其教育程度を探つて見ると、無学は92人にして割合は1割3分5厘(13.5%)に当たっている。

昭和2年 著者の調査に係る娼妓681人に就いて
・無就学 92人
・尋常小学校1年 32人
・尋常小学校2年 73人
・尋常小学校3年 96人
・尋常小学校4年 66人
・尋常小学校5年 49人
・尋常小学校6年 215人
・高等小学校1年 15人
・高等小学校2年 27人
・高等女学校1年 1人
・高等女学校2年 3人
・高等女学校3年 2人
・高等女学校4年 0人
・高等女学校卒業 1人
・女子職業学校 2人
・産婆学校 1人
・不詳 6人

 大正の初年代に救世軍で調べたときは無学4割(40%)であつたものが、其の後段々減り1割6分(16%)となり、更に1割3分5厘(13.5%)となる。こうして年々無学者の数は減ってきた。
 然らば、小学校を出で高女若くは出れと同等の学校を卒業せるものは、如何なる数に上つているかと云へば、681人の中で、実科高女を出づるもの1人。女子職業学校を出づるもの2人、合わせて3人であるが、以前のやうに一人もいないのに比較すれば此れだけ高級の学校を出たものが娼妓に堕ちている。ツマリ社会は学運が此れだけ進むできたのである。

 以上の如くであるから、無学は1割3分5厘(13.5%)で、尋常未了のものは4割6分3厘(46.3%)に当り、又尋常を卒業せるもの3割1分6厘(31.6%)、高等小学に這入ったもの6分2厘6(6.2%)、高女に入るもの1分5厘(1.5%)、不詳が9厘(0.9%)と云ふ割合に当たっている。そうして前に述ぶる如く、高女と同程度と見做す学校の卒業者は、僅かに3人のみである。


11  売笑婦の兄弟の数

娼妓の兄弟の数

著者の調査に係る娼妓681人に就いて(昭和2年)
・兄弟なきもの 13人
・自分の他に1人あるもの 90人
・3人のもの 130人
・4人のもの 109人
・5人のもの 104人
・6人のもの 91人
・7人のもの 74人
・8人のもの 31人
・9人のもの 22人
・10人のもの 7人
・11人のもの 3人
・12人のもの 1人
・不詳 6人

 之れによつて見ると、
・兄弟のないものは其比例1分9厘(0.19%)
・2人のもの1割3分2厘(13.2%)
・3人のもの1割9分1厘(19.1%)
・4人のもの1割6分3厘(16.3%)
・5人のもの1割5分1厘(15.1%)
・6人以上合計 3割4分5厘(34.5%)
に上つてゐる。(中略)

・・・然し孰れにするも色里に売られ行く女、或は客商売に働らく女、かくの如く家を離れて働らかねばならぬ生活事情に絡まるものには、兄弟の数が多いのである。而して前記(中略)娼妓681人の中で兄弟なきもの13人、兄弟の有無不詳のもの6人を引去り、兄弟のあるもの662人にその兄弟の数を割当てると、一人平均4人と9分に当た(中略)・・・る。
 東京市社会局では細民として見るべきものは、一人世帯のもの月収35円未満、2人であれば45円未満、3人であれば55円未満、4人65円未満、5人70円未満、6人75円未満のもの、かうして月収関係から細民の線を極めてある。
故に夫婦と子供三人合せて五人暮しものあれば、70円未満のものは細民である。此標準から推せば貧乏人は4人以上の子女をもてば、所謂子沢山で生計を凌ぐに容易でない。即ち多産は貧因を生み出す一大動機と原因になってゐる。


解説

 『灯の女闇の女』は、娼妓待遇改善がなされた昭和2年(1937)ごろ、主に東京市内における娼妓について調査を行なった資料を用いて構成されている。旧来の悪弊によって子女が娼妓となりゆくその背景、家庭状況を前回①、②で紹介したが、昭和になると少し状況が変わっていることがわかる。特に就学率については、改善が見られ無就学者が減って、多くの娼妓は文字の読み書き程度はできるようになったと考えられる。しかし反面、高学歴であっても娼妓にならざるを得なかった女性もあり、これを草間がいうように全体的な学歴が上がったためと見るのは早計であろう。これはつまり高学歴であっても、何か家族にトラブルがあった際、女性は身を売るしか方法がなかったことを表しているのではないだろうか。

注意事項
 ここでは、史料をそのまま翻刻せずに、主にOCRを使って文字起こしをし、適宜見やすく改変したものである。よって、数字はアラビア文字に変換されているが、旧漢字が混合していたり、旧送り仮名がそのままである点はご了承願いたい。また、改変時に誤字脱字がある可能性があるので、研究論文として使用する際には、原典を確認願いたい。

 草間八十雄の『灯の女闇の女』は、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能である。

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